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「大きな言葉」ほど伝わらない

「愛」とか「夢」とか「幸せ」とか

以前noteで「ありきたりな歌詞」について書きましたがその続き、かつ、また少し違った視点の話を。

いきなりですが僕は「大きな言葉」を軽々しく使う人って、ちょっとアレだなぁと思ってしまいます。
また、ただただ「大きな言葉」ばかりを並べる歌詞というのも、まぁ〜〜よくあって、「う~ん・・・」と思っています。(ぶ厚めのオブラートです)

「大きな言葉」というのは僕の独自の呼び方なんですが要するに、「概念そのもの」を指すくらい含まれる意味が大きかったり、もしくは美し過ぎたり、抽象度が高すぎる言葉のことです。

例えば、「愛」とか「夢」とか「幸せ」とか…

おっと、LOVE・DREAM・HAPPINESS…意図せずエグザイルのとこの事務所「LDH」になってしもうた…。

とにかく「翼広げて大空の彼方で虹の橋渡って瞳閉じて愛しい君に届けこの凍えそうなマイハートはあの光目指して駆け出していこうよ」って感じがしますよね。

また、ブラック企業の社長ほど「夢」がどうのこうの言いたがるものです。

そういう、よくわからないけどよさそうな雰囲気の言葉を語っていれば、物事を深く考えない人や人生経験に乏しい若者は「この人についていこう」と思ってしまうのかしら?

ブラック企業ではやたらと「夢」とか「希望」とか、「実現」とか、実質のない言葉を連呼して社員を洗脳する方法が横行しています。

あと、映画を観に行くと最初に予告編のCMが流れますよね。
毎回うんざりするんですが、邦画の宣伝文句って、こんなんばっかり。

 これは、愛と、希望の、物語

とか

 愛しくて、切ない、恋の物語

とか

やかましわ、と。

どうせあれやろ、誰か死ぬか、もしくは難病ものやろ?と思ってしまうわけです。
せっかく作った映画なんやから、宣伝ももうちょい考えろよ。見る気無くすわ。見んけど。
あと、「愛しい」とか「切ない」とかはこっちの感想やから!そっちが決めてくんなよ!

まぁ悪口はこのへんでやめにして、「大きな言葉」って、そのまんま出すと、ものすごく「雑」に聞こえてしまいがちなんです。
何も言ってないのと同じなんじゃないかとすら思っています。もしくは、言葉を怠けていると思います。

使ってはいけないとは言いません。そんな権利はありません笑
し「大きな言葉」をあえて用いて、効果的に使う方法はあります。
それについては後述します。

「大きな言葉」を使っていれば楽

例えば、SNSでよくこんな文言を見かけます。

今日は大好きな〇〇ちゃんとランチです♪

本当に仲が良くて「大好き」なのであれば、その友人のために自分独自の表現を用意したくならないでしょうか?

「大好き」という、雑な表現で片付けてしまうことは、「私はその友人のことを特になんとも思っていない」と言っているのと同義だと思います。
むしろ「たぶんさほど仲良くないんだろうなぁ」とすら思ってしまいます。だって、その友人について特筆するほど深い仲じゃないと、自分から言ってしまっているのです。

そうこう言っているうちに、僕がいつもお世話になっているライブハウス【徳島グラインドハウス】の長谷川さんが素敵なツイートをされました。
僕はほんとに長谷川さんの言葉のチョイスにはいつも感心させられています。勝手に引用します。

「楽な大きな言葉」について、もうひとつ、例を。

「神なんとか」って表現、なんか腹立ちませんか?
「神対応」とか「神スイング」とか「神回」とか、最近言いますよね。
あ、腹立たない? すいません、僕すげー腹たつんです。

なんで腹がたつのかなってここ数年ずっと考えていました。で、最近やっとわかったんです。別に「神を愚弄してる!」とかってことじゃないんです。
僕がこの言い回しに腹がたつのは、「神を愚弄しているから」ではなく「言語表現を愚弄してるから」です。
これは、おっさんが若者言葉を否定するのとはわけが違います。

無限にある「常人を超えるほどにすごい」ことを表す形容詞や形容動詞を全部切り捨てて「神なんとか」一つで片付けてしまおうという雑な魂胆に腹がたつのです。はらたつのり。

「超なんとか」という表現もありますが、まぁこれも雑なんですが、これはまだマシなんです。

なぜなら「超」は形容詞/形容動詞にかかっているから。

・・・わかりにくいっすね!

「超でかい犬」とか「超寒い部屋」とか「超静かじゃね」とか、言うでしょう。

「超」は「犬」ではなく「でかい」を修飾しています。

すなわち、この発言者がその「犬」に対して何を感じたのか、何を伝えたくて使った言葉なのかが一応わかる言葉づかいになっているわけです。

でも、「神なんとか」は恐ろしいことに、名詞に直接ついてしまいます。形容詞まるごとカット。

もうこれは、日本語の大事件なんです。

超誠実な対応→神対応
超豪快なスイング→神スイング
超面白い放送回→神回

しまいにはどっかの野球選手が「神ってる」などと言い出しました。なんだそれ、逆に新しいなふざけんな。

こんな言葉を自分の感情表現に使っていたら、何も表現できない人間になりますよ。だって、いらないんですもん、言葉が。

言葉っていうのは人間の思考において最重要の、「超」大前提のツールです。
誰しもが言葉を使って物事を考えます。
その言葉を雑に扱ってしまったら、どうなると思いますか!! どうなんですか!!!! ええ!!!

ここだけの話、いろんな仕事でいろんな立場の人物とメールをやりとりしますが、メールの文言に違和感のある人物というのは確実に一定層います。
そしてそういう人物とは大体、遺恨が残るか、なんだかスッキリしない仕事になります。これはもう、ほぼ確実に。

仕事においては当然、物事を正確に伝達する必要があります。
しかし言語力がアレな人は「なんか優しい感じでバーっとおなしゃす」みたいなことを言ってあとから「イメージと違う」とか言い出してトラブルを招きます。
そういう時、僕はこう思うようにしています。

「言語力=人間力」

おそらく言語をうまく扱えない人は、脳内もとっちらかっているのだろうと思っています。
だって、物事を考えるためには言葉が必要で、その言葉がうまく使えなければ物事をうまく考えられるはずがありません。

人類にとっての「言葉」

「言葉」または「言語」というものが、人類を人類たらしめる最も重要な要素のひとつであるというのは異論は無いかと思います。

我々は言葉というツールを得ることによって、例えば、より高度に組織化された狩りを行うことができましたし、協力して捕らえたマンモスをどのように捌いて分け合うかを相談することができました。

そして、これが大事なのですが、「マンモス」という言葉あるいは記号があれば、今目の前にマンモスがいなくても「マンモスという生物像」について話すことができます。

あるいはホモ・サピエンスの脳がより進化したことで、「マンモス的存在」だとか、「力の象徴としてのマンモス」みたいな、比喩や象徴化もできるようになります。
体のデカイ仲間を「あいつはマンモスみたいなやつだ」とか言ったり、「マンモス田中」とニックネームをつけることもできます。

もしくは、「明日」とか「あそこ」といった、実際に見ることができるわけではない「観念」を理解し、共有することができます。

「明日はあそこの草原にいるマンモスのうち、最も弱っているものを狩ろう」と言語を使って考え、言語を使ってそれを仲間に共有し、作戦をたてることができるわけです。

肉体的には極めてか弱い我々人類が他の動物を押しのけて地球をいわば征服できたのは「言語による高度な意思疎通」すなわち「概念の共有」ができたからであると断言してもいいと思います。

そしてついに人類は「愛」や「夢」や「希望」と言った、抽象概念を作り出し「なんとなく」共有することができるようになりました。

ここで大事なのが「なんとなく」の部分です。
「マンモス」とか「ホチキス」とか、そういう「具体的な」形、イメージの輪郭があるものであれば他人ともほぼ正確に共通の認識を得ることが可能です。

しかし「愛」の定義は人それぞれです。ものすごく曖昧で巨大で、正確に共有することの難しい概念です。
僕が抱いている「愛」とあなたが抱いている「愛」は絶対に違います。「愛」そのものの定義どころか、「愛」という言葉から想起されるイメージも全く違うはずです。

それぞれが経験則で得た「愛っぽいこと」を、それぞれが脳内の「愛」というボックスに分類しているだけのことです。
「それって愛じゃね」「いや愛じゃなくね」という会話が起こるのはそういうわけです。

そういう、ふわふわした大くくりの概念を、なんとなく「このあたりの意味合い」ということで頭の中にとどめておくことができるのは高度に発達した脳と、言語のおかげです。

しかしそれは、繰り返しますが「だいたいこんな感じ」であって、正確に定義づけて万人に共有できるものではありません。

歌詞の中の「大きな言葉」

以前のコラム「なぜありきたりな歌詞を書いてはいけないのか?」で僕は

芸術というものの目的は、制作者と鑑賞者の個人同士の間に生まれる、言葉の外の抽象意識でつながる「共感」である。
その目的において、あなた個人の、オリジナルの感情や情景を切り取って表現しなければ、そもそも表現する意味がなくなってしまう。

といったようなことを書きました。(だいぶ端折ってます)

さて、「愛」や「夢」や「希望」といった言葉をポンと出されて、一体なんの「共感」をもたらすことができるでしょうか。

これらの言葉そのままでは、到底できないと思います。できても「なんとなく」です。

なぜならば前述の通り、それらの「大きな言葉」は、人によってその言葉から想起されるイメージがあまりにも広すぎ、曖昧すぎてしまうからです。

そして、得てしてそういう「大きな言葉」は聞こえがよく、非常に使いやすいものです。
なんせ、解釈を完全にリスナーに丸投げしてしまえるわけですから。

僕はもっと意地悪なので「はいはい【愛】で片付けたな。で、愛ってなに? なんも伝わってこないんだけど?」と心の中で罵詈雑言を吐いています。

僕は別に、「愛」だの「夢」だのといった「大きな言葉」そのもの自体を、絶対に歌詞では使ってはいけないと言っているわけではないんです。

「なんも考えずに生(なま)で出すなよ」と言ってるんです。
そんなでかいもの出されても、なんもわかんねーよ、と。

どういうニュアンスでその「大きな言葉」を使っているのかを示す手順を踏まないと、何も伝わらないどころか、軽薄さすらもたらしてしまうよという警鐘を鳴らしたいのです。

例えば、長い時間を共有してきたカップルの会話で「愛してる」とか「幸せ」と言い合うのは素敵なことだと思います。
なぜなら二人は共有してきた思い出を通して「愛」や「幸せ」という概念の輪郭を擦り合わせてきたからです。

しかし、もし今あなたの目の前に見知らぬ異性がやってきて「愛してる!」と言われて、それを信用する人がいるでしょうか。
もしくは知らないどっかの社長(たぶん色黒)が突然街で声をかけてきて「夢を持とう!」と言われたら「ハァ!?」となりませんか。

歌詞でいきなり「大きな言葉」をポンと書いちゃうっていうのは、これと同じことをしているんです。

前述の「大好きな〇〇ちゃん」も、投稿者をよく知る人であれば「彼女のいう【大好き】っていうのはこのくらいのニュアンスなんだよね」と理解ができるかもしれません。

「大きな言葉」の効果的な使い方もあるよ

ではここで、「大きな言葉」を効果的に使っていると僕が思う歌詞を紹介したいと思います。

 “愛してる”の響きだけで強くなれる気がしたよ
(チェリー/スピッツ)

注目してほしいのは「愛してる」に引用符が付いていることです。

つまりこの「愛してる」は、今この歌詞自体が誰かに「愛してる」と言ってるのではなく、かつて恋愛関係にあった男女が(おそらく愛なんて言葉の意味も深く考えずに)言い合っていた「愛してる」という言葉の「響きだけで」、主人公は(よくわからないなりにも)勇気づけられていた、という解釈ができると思います。

若さや、浅ましさ、何も考えていなかったけど勇気だけはあったあの頃、といった多様なイメージやストーリーが浮かんでくる、「浅はかな『愛してる』」を取り込んだ、素晴らしい歌詞だと思っています。

世界じゃそれを愛と呼ぶんだぜ
(世界はそれを愛と呼ぶんだぜ/サンボマスター)

この曲全体を通して、言い回しがすべてぶっきらぼうであり、人物像を周到に形成しており、「愛」という概念をあえて雑に使っているのがよくわかります。
「うるせぇいろいろひっくるめて全部『愛』って呼べばいいじゃねえか」というサンボマスターからの熱のこもったメッセージが伝わってきます。

例えば、前述の「神なんとか」という言い回しも、使いようによってはとても効果的な表現になり得ると思っています。

 君の神対応に僕の心は撃ち抜かれた

と、もしこんな歌詞があったとしましょう。
すると、主人公がものすごく軽薄な若者であることが、この単語ひとつで、他になにも説明しなくてもわかります。流行のバカっぽい言い回しを簡単に取り入れて使ってしまうような青年の人物像がある程度伝わるわけです。
おそらく、この軽々しい恋は実らないか、実ったとしても大した結末は迎えないだろうというところまで想像できてしまいます。
あなたが書く歌詞が、こういうイメージを狙っていて、自覚して使うのならば!の話ですよ。

歌詞、ひいては芸術の値打ちは、どれだけイメージを想起させ、作品に込めた感情や情景を「共有」させるかにかかっていると思います。
いかに奥行きがあるか、人間性が伝わるか、情景を描かせることができるかです。

「大きな言葉」もストーリーの中で使ったり、逆打ちで利用したりすることができれば「そういうことを言っちゃう人物像」を描く上ではとても効果的だろうと思います。

なぜ「大きな言葉」は危ないのか

「大きな言葉」すなわち「愛」だとか「夢」だとか「幸せ」だとか「希望」といった概念が、歌詞を書く上でサクッと使いたくなる、とても魅力的なものだというのはよくわかります。

しかしそれを、その言葉を「そのまんま」使ってしまうと、その巨大さ・曖昧さのあまりリスナーには結局何も伝わらない、ということになってしまいます。
なんの狙いや準備もなく「愛してる」と言ってしまうと、「巨大な概念としての愛」に取り込まれてしまい、あなたの作品をふわふわした「よくわからないもの」にしてしまいます。

ではどうすればいいのか?

それは「大きな言葉」に含まれる概念を、自分自身の目で切り取って「小さな言葉」で表現することです。

「愛」や「夢」「希望」という概念についてあなたが感じたこと、切り取ったことを、その言葉そのままではなく「あなた自身の言葉」で表現するべきです。

「こういう時に、こういうことが起こって、その時こう感じた」ことを「愛だと思った」のであれば、そのこと自体を歌詞にしなければあなた自身が言葉を紡ぐ意味がありません。

言葉を紡いで紡いで、その結果それが「愛」や「夢」や「希望」としか言いようがないとあなたが確信した時にやっとそれは伝わるし、歌詞の中に書くことができるのだと思います。

それはつまり
よくわからない「愛についての歌」
ではなく
「こういうことを愛だと思う自分」あるいは「そういう風に考える人間の物語」についての歌
になっているはずです。

あなたという人物が抱き、切り取ったオリジナルの感情、情景を観賞者と共有するのが歌詞であり、芸術だと思います。それが結果として「大きな言葉」に含まれるのだという「個人の見解」やストーリーを書くのであれば、なんの文句もありません。

同志たちよ、どっかで聞いたような「大きな言葉」に逃げず、自分がどう思うかを書く勇気を持って、これからも書き続けましょうや。

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