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アーティストは「政治的発言」をしてはいけないのか

長くなってしまったので先に結論を書いておきます。

アーティストだろうがなんだろうが、「政治的発言」でも「差別的発言」でも、好きにすればいいと思います。
それは日本の憲法で定められた、あるいは民主主義によって守られる「表現の自由」です。

ただし、それによって批判されたり、無視されたり、人気がなくなったりするのもまた、ファンの人々、民衆による「表現の自由」です。

アーティストの発言によって誰かを不当に傷つけたり、危害を及ぼすことがあれば罪として裁かれるかもしれません。

アーティストの「政治的発言」

音楽が好きな皆様も、一度や二度はアーティストの政治的発言に対してがっかりしたり冷めたり、もしくは禿同(激しく同意)したりしたことがあるのではないかと思います。

斉藤和義さんやアジカン後藤さんの政治や社会に対する発言は大きな反響を呼びました。

ミュージシャンでなくても、ウーマンラッシュアワーの村本さんは漫才やツイッターなどで政治的な発言を繰り返されており、それが賛否の声を集め、よく話題になっています。
松本人志さんも、ワイドナショーでの発言が常に注目されています。

あるいは、「政治的な発言をするミュージシャン」に対して消極的・否定的な態度をとるミュージシャンもいます。

◆桜井和寿さん

◆甲本ヒロトさん

今回の話は「こう考えるのが正しい」とかそういう話ではありません。

「僕はこういう傾向を持った人間なのでこう考える」という、一本の思考の道筋を紹介するだけです。

人物像バイアス

まず僕の立場やバイアス(傾向)を明確にしておきます。

あれこれと、ややこしい議論が泥沼になっているのをTwitter等で見かけるにつけいつも思うのは「どういう傾向を持った人物がどういうテンションで意見を言っているのか」がわからないから余計に炎上したり紛糾したりするんじゃないかということです。

アメリカには「米海軍一社提供」のニュース番組がある、なんて聞いたことがあります。
ほんとにあるかどうか知りませんが、もしあれば、その番組の内容は「アメリカ海軍という立場だから、こういう風に情報操作したいんだろう」というフィルターを通して見ることができるという点で、ある意味で非常にわかりやすいと思います。
偏向報道をするにしても、その方向性が視聴者もわかっているからです。
(それを察せない視聴者にとっては超危険でしょうね)

ニュートラルな立場のふりをして偏った報道をする日本の新聞やテレビ局のほうがよっぽど危険ではないでしょうか。

さて、僕はラジオファンです。
ラジオリスナーならよくわかると思いますが、パーソナリティの冗談が勝手に変なネットニュースになっていることがよくあります。
オードリーの若林さんや爆笑問題の太田さんは無茶苦茶なことを言いますが、リスナーは彼らの人物像をよく知っていますし文脈の中での発言だとわかっているので「あはは。また変なこと言ってる」で済みます。でもそれが、人間性を削った、そもそものバイアスを抜いたネットニュースの「文字」になると、ものすごく冷たい発言や偏った人間に見えるわけです。

僕は、この表現が正しいかどうかわかりませんが「作品原理主義者」タイプの人間です。
「芸術至上主義」と言った方がいいかもしれません。でも微妙に違うんだよなぁ~~~。ロマン主義の方が近い? ま、うまい表現が見つからないのでとりあえずこれでいきます。

できるだけシンプルに、誰が作ったとか、いつ作られたとかっていう付帯情報にとらわれず、その作品そのものと向き合いたいと思う派です。
その作品が生まれた背景とか作家の人生や人物像、道徳観も、わりとどうでもいい派です。

もちろん名画を鑑賞するときにはその作品の時代背景がわかっていた方が理解が深まるし、ベートーベンがある曲を作曲した時にどんな女性に恋していたかを知るのは作品をより深く鑑賞するために重要なことだろうと思います。
でもそれは作品をより深く味わい、考察するための情報であって「ベートーベンが作ったのだからすごい曲だ!」とかはたまた、「反戦というメッセージがこめられているから価値がある!」とかいう思考には陥りたくないなと思ってます。

とはいえ、これは傾向であって、「作品の付加情報を一切排除しなければならない」とまでは思いません。その線は曖昧です。人間だもの。
前述の通り、ラジオパーソナリティの発言は人物像込みで聞いています。
でも、若林さんや太田さんの言説だからといって無闇に「正しい」とか「面白い」と思い込まない、ということです。

作品と人物

例えば「自分の好きなミュージシャンが作った曲だから好き」と言う風に感じる人は多いと思います。それをファンと呼ぶのかもしれません。
でも僕は、好きなミュージシャンや仲のいい友人が作った曲や絵画だからといって、それを評価するかしないかは全くの別問題だと思っています。
逆に、残虐な殺人鬼が描いた絵画でも、その絵画が素晴らしければ、彼が殺人鬼であり道徳観念が抜け落ちていることは全く関係がないと思っています。
読んだことはありませんが、「我が闘争」という書物自体の出来を評価することと、アドルフ・ヒトラーという人物が犯したことを肯定することは別問題だろうと思います。

だからこそ、「中学生なのにすごい」とか言われて、「若さ」や「かわいらしい容姿」という前提ばかりが取り上げられ、本来の才能をまっすぐに見てもらえない「天才キッズ」や「中学生歌姫」を不憫に思います。彼ら彼女らの凄さは「若いのにすごい」じゃないのに、と。

50歳のおじさんだろうが、14歳の美少女だろうが、その作品が「いい」かどうかだけをできるだけシンプルに見たいと、願っていますし心がけています。

作品と「犯罪」

ジェームズ・ガンという映画監督は2018年、自身の過去の不適切なツイート(小児性愛やレイプについてのジョーク)によってマーベルの「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズの監督を解雇されました。小児性愛やレイプといった問題を茶化すこと自体は許されることではありませんが、その問題が起こった以降も、僕は変わらずこの「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」シリーズが大好きです。
アライグマかわいい。

日本国内でも今年大きな問題になったのがピエール瀧氏の薬物使用による逮捕に端を発した「作品に罪はない」問題です。
相次ぐCDの回収や出演作品の放映自粛などに対して、坂本龍一さんが「自粛ムード」に対して以下のような意見を発しました。

ドラッグを使用した人間の作った音楽は聴きたくないという人は、ただ聴かなければいいんだけなんだから。音楽に罪はない

よくわかる意見で、僕も「作品に罪はない」「作品と人物を分けて評価したい」論者ですので「そうだよな」と思っていたのですが、薬物というものが絡んでいることで、何か違和感がありました。

一方で松本人志さんはワイドナショーにおいて以下のように述べました。

薬物という作用を使ってあの素晴らしい演技をやっていたのかもしれないと思ったら、それはある種のドーピングなんですよ。ドーピング作品になってしまうので、僕は監督としては公開してほしくない

この意見が、すごく腑に落ちた感覚がありました。別に完全に賛同するわけではありません。「なるほど、その考え方も筋が通っているな」と思ったんです。

ピエール瀧氏は20代の頃から薬物を常用していたとのことです。これまで僕たちが見てきた彼の演技や飄々としたキャラクターが、彼と言う人物が作り上げたものではなく薬物を使用した上で作られたものだとするならば、それは「作品」を著しく毀損するものであり、おそらく究極の「作品原理主義者」であろう松本人志さんからすると許せないことなのだろう、と。

IPPONグランプリで、松本さんは「視聴者による大喜利」をわざわざ紹介します。どこの誰かもわからない視聴者が送ってきた「言葉」だけで、いかに面白いことが想像できるかを試し続けているのだろうと思います。

そもそもなにが問題なのか

僕の立場をわかっていただいたところで、本論に戻ります。
大変重く、取り扱うのが難しいこのテーマ。

要するに

「芸術やエンターテインメントが本分のミュージシャン(あるいはコメディアンや小説家など)が、作品やそれ以外の言説において政治・体制について意見を表明することは是か非か」という問いになるのだろうと思います。

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「ミュージシャンの政治的発言」肯定派

ざっとググってみたのですが、だいたい2派の肯定意見が見られました。

論点1
欧米のミュージシャンは政治や社会問題に対して意見を持ち、発信するのが当たり前だ(なのに日本は遅れている的なニュアンスと思われる)

2017年、トランプ政権発足後のアカデミー授賞式で多くの受賞者がトランプへの批判や揶揄を発したことは記憶に新しいニュースです。

僕は欧米に住んだことがないのでそれがどの程度の「当たり前」なのか、オーディエンスがそれに対してどう思っているのか、向こうの世間でのトレンドの肌感覚みたいなものはわかりません。
なので今回は「日本において」という前提の上で、この話を考えています。

そしてこれについては国民の宗教的な背景が異なることを考慮にいれる必要があるかと思います。
聖書や神という絶対的ルールブックが共有されているキリスト教国やイスラム教国と、聖徳太子以来「和をもって尊し」として「空気」を読むことが重要な日本という、ある意味特殊な「宗教」を持った国家では、同様に考えることはできないはずです。いわば日本は「空気教」なのだろうと個人的には思っています。

日本を市場として作品を発表しているかぎり、「海外ではこう」を根拠に「ミュージシャンが政治的発言をすることでがっかりするのは間違い」とか「日本人は遅れている」と断じることはできないんじゃないかと思います。

ていうか、アカデミー賞授賞式では誰一人として「トランプ擁護派」はいなかったのかしら? 映画業界の界隈で「反トランプ」の「空気」が出来上がっていたからセレブ達もみんながみんなそういう発言をこぞってできたという可能性はないのだろうか? それって「空気」じゃないの。まぁ、これは邪推です。

論点2
ロックやパンク、フォーク、ヒップホップ等、現在の音楽シーンのほとんどがそもそも反体制・反骨・アナーキズムから生まれたものであり、ミュージシャンがそれらの意見を述べるのは当然の流れだ

発生当初は確かにそうだったかもしれませんが、現在活躍するミュージシャンも同様に扱ってよいかと言われたら、少々無理があるように思います。
また、当時のそれらの音楽が本当に純粋にそういう反体制のメッセージのために作られていたかも怪しいと思います。

現代において、反体制でありたい、アナーキーな主張をしたいと思って音楽を始める人がどれだけいるでしょうか。,
あるいは「反体制という『ファッション』」に憧れてその音楽スタイルを志した人物が、その憧れの人物、例えばシド・ヴィシャスを模倣して「反体制」的な発言をし始めたとして、それは本当にその人自身の考えなんだろうか?
ロック・パンク・フォーク・ヒップホップはスタート時は「カウンターカルチャー」でしたが、今や立派なメインストリームカルチャーです。カウンターカルチャーに攻撃される側です。
そこに属するミュージシャンが自身の音楽ジャンルを根拠として政治的発言をするというのは説得力に欠けるように思います。

・・・ん~~~ここ誤解を招きそう。別に「ロック」や「パンク」であること自体は政治的メッセージを発信するミュージシャン像ではもはやないんじゃないのかな。個人として、主義主張を発信してるって話でいいじゃん、ってことです。

ってかそもそも、原発とか安倍政権を批判する程度でそれは「ロック」なのかね。
何かに反発することこそロックでありパンクであるというのなら、資本主義とか、情報化されて加速していく社会とか、そういうところに対してオリジナルの疑問を抱いていかないと、そのへんの「右の人」とか「左の人」と同じようにイデオロギーに飲み込まれちゃうんじゃないの。
誰かと同じになっていいのか?ロックンローラー。

芸術と政治・社会

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僕自身の意見としては、「芸術に政治を持ち込むな」とも「どんどん持ち込め」とも思いません。思いませんっていうか、ご自由にどうぞ、です。

なぜならば僕はその「作品」しか見ていないし、メッセージそのものが正しいかどうかになんて興味がないから。
「音楽」も「演芸」も「物語」も、この世のあらゆる作品は常に時代の奔流の中から生まれてくる、政治や社会から切っても切り離せないものだと思います。

僕が作品の付随情報から読み取るのは「あ~こういう時代にこういう思想の文脈や主張があってこういう作品ができたんだな」という意図と結果です。
鑑賞してるのは「作品の出来」そのものであり、そこに込められたメッセージの是非ではないんです。
「芸術という神聖なものに主義主張を持ち込むな!」などということでは決してないわけです。

好きにすればいい

音楽を政治利用する人もいるし、政治を利用して音楽の価値を上げようとする人もいます。
時代が違うと言われるかもしれませんがモーツアルトなんて、宮廷音楽家ですぞ。政治・権威のど真ん中じゃないのよ。

与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』は、「反戦の歌だから」評価されているのでしょうか。
確かにその点も大いにあると思いますが、僕としてはこの言葉選び、リズムの美しさ、与謝野晶子という人物の差し迫った情熱的な表現にこそ、この歌の価値があるように思います。

好かれるも嫌われるも自由

ミュージシャンも一人の個人です。何を言おうが自由であり、それは民主主義の大前提である「表現の自由」です。

ただし、その発言を無視されたり、批判されたり、ファンが離れていくのもまた、ファンの人々が持つ「表現の自由」です。

誰が何を言おうがそれを「主張する権利」は断固として守られるべきです。
極端に言えば、たとえ圧倒的に間違っていようとも「黒人は白人と同じバスに乗るべきではない」などと考えること、発言すること自体は自由です。
発言自体を取り締まることはできません。それこそ言論統制になってしまいます。

でも僕は、その主張を「無視する」という権利を行使するかもしれないし、その発言内容を批判するかもしれない。正しいと思えば賞賛するかもしれない。

すなわち「その発言によってどう思われようが、批判されようが自己責任ですよ」ということ。
「自身の主張が客の心に響かなくても『意識が低い』とか文句たれないでね」ということ。

世の中には反原発の人も原発推進派の人もいます。「アベ政治を許さない」人もいれば、安倍総理を信用している人もいますから。

「空気」

もしミュージシャンの友人から「こういう政治的な発言をしたいんだけど、しても大丈夫だろうか?」と相談されたとしたら「それは君の自由だけど、大いにリスクが伴うだろう」と答えると思います。

例えばある夜、僕は漫才やコントを見てただただアハハと笑いたくてフジテレビの「THE MANZAI」を見ていました。ウーマンラッシュアワーが登場した時には「お、パラちゃん頑張れ!」とか思って見てたのに、突然原発や基地問題などのシビアな問題を持ち出されて、しまいには「日本国民は問題意識が低い」とか言われて。

そんなのいきなり目の前に突きつけられて、楽しいわけないじゃん、と思うわけです。別に、主張すること自体は全然問題ないけど、自分の用意した場でやってくれよ、と。

友人と居酒屋で馬鹿話して盛り上がってる時に突然「原発についてどう思う?」とか「お前の支持政党は?」とか聞かれても「今はやめて」と思います。
ただそれだけです。
村本さんに対して「その発言は間違っている」とは思いません。思うのは「楽しい気分だったのに」ということだけです。

っていうか単純に、純粋に「お笑い」「漫才」として、僕は面白いとは思えなかった。面白いと思った人も当然いたでしょう、これは個人の感想です。
爆笑問題やナイツという漫才師も時事ネタを取り上げて漫才を作り上げますが、彼らは自身の政治的社会的主張を漫才という作品の中に取り込み、笑いどころを随所に織り交ぜてくれています。
僕は爆笑問題やナイツの方がスマートだし、おもしろいと感じます。

ただし、おそらく村本さんという人は、そういう反発があることもわかってああいう漫才を披露したのだろうと思います。
その言論の内容は別にして、社会派芸人という地位を短期間で築き上げたのは戦略なくしてできるはずがありません。思い切った漫才をやって、それによって獲得できる地位や評判が、失うファンの数を上回るという計算があったはずで、それは成功していると思います。
彼の発言は毎日のようにツイッタートレンドに上がってきますもんね。

一方で、2018年のM-1グランプリでは、審査員から「ゾンビ/殺すなんて言葉を出すと、無意識的にも『ウワっ』となってしまって空気が冷める」といった批評がありました。
(このコラム、お笑いからの例多いよね)

ちょっとした言葉選びで、ほんの少しだけ客の空気が離れてしまっただけでも、それが連鎖して大きな笑いが起こりにくくなる。
それくらいシビアな世界なんだと、その難しさに僕は痺れました。
音楽だっておなじで、ライブで音楽の場を楽しみにきている大勢のお客さんに、わざわざ時間をとって自分の政治的主張を聞かせることは、特に日本人という国民性にとってはスマートではないし、日本人が大事にしている「空気」をぶち壊す行為なんだろうと思います。

でも、それをやることは、例えば「あべしね」と言うことだって、自由です。なんて自由な国なんだろう。でも何度も言うように、それで嫌われるかもしれないけどね。

言いたいことも言えないこんな世の中じゃ

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いや、言いたいこと言えばいいじゃねーか!!
ただしファンが減ってもしらねーけど!

「空気」を大事にする日本という国においては、ミュージシャンに限らず、本来政治家や学者でない人物、特にエンターテインメントを提供するような職業の人物が政治的発言をすることはとてもリスキーなことだろうと思います。
楽しもうとしている場で、急に政治的で深刻なメッセージをつきつけられると、ウッとなってしまう感覚はよくわかります。

僕自身もどちらかといえば否定的です。
でもそれは「芸術に政治を持ち込むな!」とかいうことじゃなくて、そのメッセージが作品にとってプラスに働かない限り、単純に作品にとって「邪魔」だと思うし、作品を鑑賞する側に余計なノイズを与えることになる気がするからです。
ってか芸術と政治が切っても切り離せないのは当たり前だと思うし。

では僕がもし、何か政治や体制について意見を述べたいと思ったらどうするか?
僕自身は、僕の意見を聞きたくない人にまでわざわざ聞かせるようなことはやるまい、と思います。このコラムのような、わざわざ見にきてもらわなければならない「自分で用意した場所」でその意見を述べます。
わざわざ長い文章をスクショしたりしてTwitterのタイムラインに流したりはしませんし、ライブのMCで時間を使って言うこともしません。酒の席で論をぶち上げることもしません。

また、僕は前述の通り「作品原理主義者」的傾向がありますので、何か主張があるなら、できればそれ自体を作品にしたいと思います。生きづらさや、社会に対して思う反発の気持ちをデザインや歌詞の中で昇華した形で出したい。
(それができてるかどうかは別です笑 そうしたいと願っています)

政治に「利用される」とはなんなのか

斉藤和義さんは2011年、自身の楽曲「ずっと好きだった」の替え歌「ずっとウソだった」を発表しました。
僕はこれを見た時に「汚された」と思いました。

※youtubeに上がっていますが正式なアカウントではなさそうなので見たい方は探してください。

斉藤和義さんが反原発であることにはなんの文句もありません。東電に対する感情もよく理解できます。また様々な記事を読むと、軽いノリで公開したもので、斎藤さん本人の気持ちも当時と今とでは変わっているのだとか。

僕はこの替え歌が、とっても嫌でした。僕は原曲の「ずっと好きだった」という楽曲がすごく好きです。その曲に紐づいた思い出もあったりします。
「作品原理主義」である僕にとっては、この曲はもはや斉藤和義さんという人物から切り離された単一の「作品」として自分の思い出も込みで大好きだったわけです。

しかしそれを、斎藤さん自身の主義主張を伝えるための道具として利用されたように感じました。
本人が作った曲だから本人がどうしようが勝手です。表現の自由です。

しかし僕は僕の「表現の自由」を行使してこう言います。

その替え歌は大嫌いだ。

震災後の4月、突然耳に入ってきたこの直接的で美しくない歌詞の「替え歌」は、たとえ本人の遊びだろうと、「ずっと好きだった」という作品を著しく毀損していると感じたわけです。
でもこれも、斉藤和義さんの人物像をよく存じ上げないので、よく話を聞いて、ああいう行動にでた理由がわかればもっと理解できるのかもしれません。

仲良くしようよ(小並感)

ボブディランや忌野清志郎が、その真意はともあれ「反戦歌」と言われる名曲を生み出してきましたが、それらを僕は否定しません。
ってか誰が否定できようか!?
なぜならば「いい曲」で「かっこいい」と思うから。

僕は、作者が伝えたい主義主張がどんな熱量でその楽曲にこめられているのかを受け取りたいのです。
それだけのことです。そこから何を感じ取るのかは聞く側の自由です。

自分の切実で曖昧な気持ちや物語をできるだけしっかりと、多くのリスナーに届けるために、様々なメタファーや音韻、ギミックを織り交ぜて楽曲やパフォーマンスという「作品」をつくりたい。できるだけ音楽に、作品にたいして誠実でありたいと願います。

ミュージシャンの政治的メッセージとそのミュージシャンの作品を分けて考えることができないのは日本という国の言論文化の未熟さもしくは特殊さなのかもしれません。
彼の政治的主張が自分の主張と違うからといって彼の音楽や人物像まで否定するのは褒められません。

誰がどう考えようと自由ですし、それは民主主義によって守られています。
(それがもし差別的であれば非難されますし、法を犯せばもちろん裁かれますが)
それはあなたと逆の考え方の人間も等しく持つ権利です。

あくまで、ぼくの価値観における考え方です。
どうか、考え方の違いでお互いを攻撃しあうことのない世界になることを願っています。

左の人 右の人
ふとしたことできっと繋がってるから
片一方を裁けないよな
僕らは連鎖する生き物だよ



・・・・・ポイズン!!!!

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