やらない善よりやる偽善

人に何かをする際はこの言葉が頭をよぎる。人に与えるとき、決まって私は打算的である。何も考えずポイっと人助けすることは少ない。そのたびに自分は打算的な人間なんだなと感じる。そりゃあどちらもやる前提では偽善よりも純粋な善のほうが良いとは思うよ。

でも私はそこまで純粋ではない。だからといって人に与えることをしないわけではない。別にお金とか損得など経済報酬だけでなく、自分がどんな気持ちになるかな?という感情報酬も考える。人助けをしたらいい気持ちになれそう、自己肯定感上がりそうだなといった風に。これすらも自分のためにやっているのだから、私が人の為だけに自己犠牲的に与えることをするのはないかもしれないし、なくてもいいと考える。なぜなら人は幸せになっても自分は幸せになれないから。自分も幸せになり、かつ相手の為にもなる。こんな偽善をこれからも増やしていきたい。

そもそもこの考え方は偽善なのか。割と真っ当ではないか。善とは?偽善とは?前提がグダグダになってきた。文章書きながらうすうす感づいてはいたんだよ。そもそも善と偽善の定義は?って。でもそこを言っちゃうとまた書き始めないといけないと思ってあやふやにしとこって思いました。白状します。すいやせん。

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