さようなら、キラッとプリ☆チャン

 ※この記事は昨年末のC99で頒布した本の最後に載せていたものです。 

 2021年5月30日、アニメ「キラッとプリ☆チャン」が終わった。153話だった。そのことは、僕に久しく忘れていた感情を思い出させた。
 アニメが終わるのはつらい。
 いい最終回だったと思う。けれど、良い最終回だったという感想は、アニメが終わるという事実そのものを帳消しにしてくれるわけではない。
 それでも、時は流れていった。最終回から半年近くが経ち、新シリーズも始まった。単独ライブも終わり、通販で頼んでいたパンフレットとアクリルスタンドも家に届いた。つまり──終わったのだ。完全に。プリチャンは終わった。ももやんは月に行った。行ってしまった。
 すべてが終わってしまった今、確かに言えることは一つだけ。
 僕たちはみんな、桃山みらいが大好きだった。

・一年目
 2018年は激動の年だった。いくつかの転機があり、引越しをした。会社員生活にも慣れ始め、それなりに大きな仕事をいくつかこなした。一方で、体調は最悪だった。食事をするたびに気分が悪くなり、吐き気がした。ものを食べるのが嫌になり、会食がストレスになって、ただでさえ少なかった体重が七キロ以上落ちた。そして──プリチャンに出会った。
 正直に言って、プリチャンの第一印象は良くなかった。色々あってプリパラは途中から見れていなかったし、何より公開されたキービジュアルがイマイチだった。今から考えれば、おそらくデザインの方向性が定まっていなかったのだろう。ももやんはちょっと両生類っぽい顔立ちだったし、萌黄は何だか性格の悪そうな顔つきだった。そして玩具がダサかった。本当にダサかったのだ。プリチャンキャスト、というこの十年でも有数の謎玩具だった。スマホ型の本体に「やってみたアプリ」という謎のブロックをはめ込むと、ゼンマイ仕掛けでブロックがくるくる回るという仕様だった。これの……、これの何が楽しいのか? 本当に令和の玩具なのか?ともかく、放送前の時点で、個人的な期待値はかなり低かったのだ。
 そして始まったアニメは、これまた令和とは思えないものだった。まず、何よりもテンポが悪い。恐ろしくのんびりしたテンポだった。ここ数年の(昔からそうかもしれないが)キッズアニメは何よりも速度が重視されていた。加速主義である。妖怪ウォッチもプリパラもそうだ。売れるアニメというのは、何よりもテンポがいい。飽きさせないのだ。しかし、プリチャンはそうした売れ筋路線とは、明らかに一線を画していた。よく言えば丁寧で、悪く言えばテンポが悪い。遅いのである。
 しかしながら、そこには妙な面白さがあった。周囲の評判は芳しくなかったが、僕はテンポの悪さも含めて、独特のちょっとのんびりした雰囲気が好きだった。人間関係もこじんまりとして、変に飾らないところが良かった。赤城あんなのようなスーパーセレブと、思いっきり下町っぽい春太の少年野球チームが隣り合わせで同居しているのどかな世界観が好ましかった。何より1~2話にかけて示されたコンセプトの方向性が良かったのだ。最初期の桃山みらいは、普通とは違う、変わった好みを持つ人物として描かれていた。自分が「好き」「素敵」と感じるものを表現すると、周囲からは「変」なものと見られてしまう。そういう女の子だ。(この要素は、話が進むにつれてりんかに託されるようになっていく)。 
 そして、人とは違う「好き」を持っている女の子が、それゆえに、身の回りの(他の人は気づかないような)キラッとしたいいところ、いいものを見つけることができる。そういう話として、キラッとプリチャンは始まったのだった。

 前提として、プリチャンは一応プリティーシリーズの流れを汲んだアイドルアニメである。しかし、「アイドルの卵」としての桃山みらいの物語は、第13話「桃山みらいが、とんでみた!」で一度完結することとなった。この回は、みらいが「成功/失敗」の物差しで自分たちを測るほぼ唯一のエピソードである。これまでのプリティーリズムっぽい展開を踏襲したのはここまでで、この話を境にプリチャンはかなりの独自路線を歩んで行くことになる。練習を重ねて本番に備えるのではなく、全てをぶっつけ本番でやり切ることに、自身の方向性を見出していくのだ。
 象徴的なのが18話〜22話にかけて四話連続で描かれた夏休み回で、たぶんこの時期にプリチャンにハマった人も多いと思う。制作側も視聴者側も、ようやくプリチャンという作品の楽しみ方がわかってきたのが、このあたりのエピソードだった。豪華客船に乗り込む18話、キラッツ唯一の喧嘩回(本当にしょーもない喧嘩だったが)である20話、そしてキラッツの「つるまない」一面が描かれた21話。どれも良かったが、やはり自分としては19話「夏だ!ビーチだ!やってみた!」を推したい。個人的には一期のベストエピソードはこれだと思うし、このエピソードをきっかけに、ぼくは桃山みらいを大好きになった。
 売れない海の家を手伝いにきたキラッツと、プライベートビーチで優雅に過ごすメルティック。そこから始まるお決まりの対決という物語の流れは、綺麗な洞窟を見つけたみらいがふらふらとどこかに消えたことで有耶無耶になる。その洞窟にはハート型の穴が空いており、そこから見える空の美しさをみんなで分かち合うことで、物語は終わっていく。
 競うことではなく、分かち合うことがプリチャンの根幹にあるテーマである。(競うことが悪とされるわけではない。勝負とは、物事を分かち合うための手段の一つなのだ)。それはプリチャンが配信をテーマにしていることから、おそらくは自然に導かれるテーマであり、三年間を通じて一貫して描かれていたものなのだが、それが最初にはっきりとした形で示されたのが、この十九話だったのではないかと思う。物語を締め括る「今日は楽しかったねえ」というみらいのセリフには、プリチャンという作品の全てがある。側に立つ友人のぬくもり、はしゃいだあとのどこか気怠い幸せな余韻。全ての一日が模範とすべき聖なる日。

 夏休みが明けると同時に、メルティックスターの物語が動き出した。紫藤めるというキャラクターが加わったことによって、作品のバランスがグッと整い、引き締まることになる。「エキセントリックだが、どこまでも素朴な善人」というめるの造形は、ともすればプリチャンの世界観からやや浮いてしまいそうなメルティックスターの二人を、しっかりと繋ぎ止める役割を果たしてくれた。
 紫藤めるの一番の特徴は、彼女が恐ろしいまでのロマンチストだということである。彼女は信じられないくらいロマンティックな理由から、幼少期の赤城あんなの下を離れる。それは、並外れた才能と恵まれた環境を持つ彼女にとっては、ただ現実の延長に過ぎないのだが、彼女以外の人間にとってはあまりに現実味を欠いていて理解できない。優れた才能を持つ人間は、往々にして素朴なロマンチストに見えるものなのだ。
 める加入後の十数話は、おそらく最もプリチャンらしい話が続いた時期だろう。28話「セレブなパーティ行ってみた!」、31話「マンガの現場行ってみた!」、32話「気になるウワサ追ってみた!」、35話「友情、時をこえてみた!」、41話「春太のデート応援してみた!」などなど……。タイトルを見返していて、一番懐かしい気持ちになるのも、この時期だ。そして、バラエティ豊かな単発のエピソードの中でも、もっとも際立っている回がある。桃山みらいという主人公の精神性を決定づけた第32話「気になるウワサ、追ってみた!」である。
 ある日、みらいは妹から「ホイップさん」という謎の人物にまつわるウワサを聞く。いわく、ホイップクリームのような帽子を被り、常にスイーツを食べながら口笛を吹いている男性で、見かけると幸せが訪れるのだという。キラッツの三人は、ホイップさんを見つけるべく行動を開始するのだが……。
 異様な回である。このホイップさんの正体はみらいの父親なのだが、作中人物たちは誰一人としてそのことに最後まで気付かない。徹底したすれ違いの回なのだ。みらいは謎のホイップさんの正体を掴むことができず、滅多に帰ってこない父親にも結局会えず終い。(恐ろしいことに、3シーズンを通して、みらいが父親と会話をするシーンは一度も描かれない)。にもかかわらず、彼女は父親が残してくれたケーキを食べながら嬉しそうに呟くのだ。「パパ、ライブ見ててくれたんだ」。
 これはかなりの衝撃だった。忙しくてなかなか会えない父親(あるいは母親)というモチーフ自体は、子供向け作品において決して珍しくはない。しかし、多くの場合、そこで描かれるのは「会えなくて寂しい」「会えて嬉しい」という感情だろう。(これを残酷なまでに突き詰めたのが、プリキュアアラモードの傑作回「涙はガマン!いちか笑顔の理由!」である)。しかし、桃山みらいは違う。彼女は父親に会えなかったことを寂しがるのではなく、父親がライブを見てくれたことを素直に喜んだのである。おそらくは数ヶ月ぶり、数年ぶりに戻ってきた父親が、自分に会うことなく立ち去ってしまった、まさしくその瞬間に。(そして実際のところ、現実における子供の親への感情というのは、たぶんこれくらいのものなのだ。親に会えずにさびしがる子供、というモチーフはかなりの程度、保護者へのリップサービスでもある)。
 みらいという主人公の精神性がはっきりと理解できたのは、この時だ。そこには人間関係に対するある種のドライさがあるが、それだけではない。そこにあるのは世界に対する信頼、この世界がたった一つの空で繋がっているということへの、絶大な信頼である。どこにいるとも知れない父親も、けれどどこかにはいる。同じ空に下にいて、自分のことを見てくれている。なら、それでいい。諦めでも何でもなく、みらいという少女は心の底からそう考えているのである。
 わたしたちはみんな、同じ空の下にいる。
 これこそが、プリチャンという作品を貫く絶対的なテーマなのだ。

 けれど、一期の終盤になるとたった一人だけ、同じ空の下にいない──いることのできない人物が登場する。それこそが、白鳥アンジュである。
 アンジュに関連したエピソードとしては、第28話「セレブなパーティ行ってみた!」が印象的だ。アンジュの主催する豪華なパーティに招待されたキラッツが、ドタバタと悪戦苦闘するお話で、これは18話「サマーなスペシャルやってみた!」と対になるエピソードでもある。どちらも桃山たちが身の丈に合わない「ゴージャス」な空間に招待されてソワソワ、ワクワクするのだが、白鳥アンジュはカレンと異なり、キラッツたちを丁重にもてなし、助けてくれる。そして彼女たちは、アンジュへの憧れの念を一層強めるのだが──もっとも印象的なのが、この話のラストである。
 パーティを後にし、ドレスを返却したキラッツたちは、一日を振り返りながらアンジュの住むタワーを見上げる。それは、トップアイドルの頂がまだまだ「はるかに遠い」ものであることの実感と同時に、それが昔のように画面の向こうの憧れではないこと、「昨日よりずっと近い」ものになったという確かな感覚を表してもいる。ほんの一晩だけとはいえ、自分たちもまた、あの場所にいたのだ。だから、いつかはきっと……。そう願うキラッツたちの横顔を映した後、カメラはその目線の先、タワーのてっぺんの部屋にいるアンジュの姿を映し出す。みらいと同じように窓の外をじっと見つめるアンジュだが、その視線の先には空っぽの夜空が広がっているだけで、何もない。その虚ろな瞳が示しているのは、「憧れ」という垂直的な関係に貫かれた世界の、その限界である。憧れの対象をしっかりと持ち、友達と並んで歩くキラッツと対象的に、アンジュはたった一人でタワーのてっぺんに立っている。憧れは人に目標と夢をあたえてくれるかもしれないが、果たしてその先には何かが残っているのだろうか?空の果てに一人で立ち尽くすアンジュは、その何かを見つけることがもうできない。
 それゆえ、シーズン終盤において彼女は突如として引退を宣言することになる。実際、白鳥アンジュは全ての登場人物の中で唯一、「卒業」という概念を有したキャラクターである。(何しろ主人公であるキラッツたちでさえ、「卒業」を描かれることなく終わったのだ)。このことのもつ意味は大きい。要するに、アンジュはプリチャンという作品の理念と対立する存在なのだ。彼女は、古典的なアイドルアニメの世界、トップアイドルを頂点としたヒエラルキーの世界に生きている。その中に囚われている。だからこそ、ミラクルキラッツは白鳥アンジュに勝たなくてはならない。彼女を解放するために。
 シーズン一の最終章とは、異なる二つの世界の対決である。ヒエラルキーに貫かれたデザイナーズセブンの世界と、どこまでも水平なキラッツたちの世界。前者の世界において、白鳥アンジュは完璧な存在である。そのパフォーマンスは決して誰にも真似することができず、負けることもない。けれど、それこそが彼女の欠点でもあるのだ。配信カルチャーにおいて決定的に重要なのは「わたしにもできそう」と視聴者に思ってもらうことだからである。孤高の存在である白鳥アンジュは、その「キラキラ」を誰とも分かち合うことができないのだ。
 一方、キラッツたちの目標は、「キラキラ」を世界中の人々と分かち合うことにある。つまり、シェアの精神だ。誰でも参加することができ、真似することができる「みんなの」番組作り。キラッツたちは常にそのことを目標に活動を続けてきた。だからこそ、最後の最後でアンジュの世界はキラッツに負ける。負けることで彼女自身も解放される。ヒエラルキー的な秩序から降りることでようやく、アンジュは自由になることができたのだ。そのことは、続くシーズン二における彼女のセリフによく表れている。
「プリチャンを辞めなくて、本当によかった」。

・二年目
 さて、時は巡り二年目が始まった。
 一言で言うなら、シーズン二は面白かった。それはもうめちゃくちゃに面白かった。おそらく、プリチャンの視聴者にアンケートを取ったら、九十%の人間が「二期が一番面白かった」と答えるだろう。それほどまでに、この年の完成度は高かったのだ。一期が良作ながらもあくまで地味な雰囲気を崩さなかったのに対し、二期にはある種の華があった。素朴さと華やかさが絶妙な割合でブレンドされた作風だったと言えるだろう。強いインパクトを持つリングマリィの二人によって序盤の視聴者を惹きつけつつ、虹ノ咲だいあの物語に引き込んでいく構成も上手かった。
 シーズン2の魅力を語るうえで、虹ノ咲だいあとバーチャルだいあは欠かすことのできない存在だ。プリチャンの物語(と言うよりキラッツの物語)は、シーズン1のラストで完結してしまっている。普通であれば、新しい舞台、新しいライバル、新しい目標を追加することで(つまり、インフレを起こすことで)続編を作ることは可能である。しかし、垂直的なヒエラルキー自体を一期のラストで否定してしまった以上、そうした古典的な手段はプリチャンにおいては使えない。「いいね」で繋がるシェアエコノミーの世界には、インフレが存在しないのだ。では、どうするか。プリチャンが選んだ道は、「いいね」の外側にいる人間を主人公に据える、というものだった。それが、虹ノ咲だいあなのだ。
 前シーズンにおけるキラッツのモットーは、「みんなが真似できる番組作り」というものだった。女の子たちにとって、キラッツは憧れの対象であると同時に、簡単に真似できる存在でもある。みんなよりも半歩だけ前にいるけれど、でも一歩分離れているわけではない。それがキラッツの魅力だったのだ。ところが、虹ノ咲だいあは、逆にキラッツから半歩だけ後ずさってしまう、そういうキャラクターとして描かれている。いくらキラッツが「みんな」と同じであろうとしても、だいあはその「みんな」から自分を差し引いてしまうのだ。「わたしなんかが、みらいちゃんと同じなわけがない」。そうやって自分の価値を下げることで、彼女は桃山みらいというアイドルの価値を高めようとする。自分が半歩下がることで、一歩分の距離を生み出すのである。要するに、虹ノ咲だいあという女の子は、アンジュとは逆の意味においてアンチ・プリチャン的な存在なのだ。
 プリチャンの根本的なテーマは「みんなが同じ空の下にいる」こと、そのことによって平等である世界を描くことにある。それはつまり、いかにしてヒエラルキー的な秩序を解体するか?という問いに等しい。シーズン1で解体されたのは、ヒエラルキー秩序の「上」にあたる部分だった。一方で、シーズン2が描くのはヒエラルキー秩序の「下」である。自分を卑下することでアイドルの価値を高めようとするファン心理をいかにして解体するのか、それが二期の中心的なテーマなのだ。
 そんなわけで、必然的にシーズン2のストーリーは虹ノ咲だいあの友達作りが中心になる。そもそもジュエルオーディション自体、彼女が友達を作るために開催した、大変エゴイスティックな大会である。自分のドレスを受け取ってくれそうな(つまり自分と友達になってくれそうな)女の子たちを探し出すこと。あわよくば、そんな子たちと仲良くなることを目的として、ジュエルオーディションは開催されている。結果として、この作戦は大変順調に進むわけだが、問題はだいあ自身の根本的な自己卑下が解消されていないこと、むしろオーディションがうまくいけばいくほど罪悪感が強くなることなのだ。
 その帰結が、シーズン2でも評価の高いエピソードの一つ、第81話「聖夜はみんなで!ジュエルかがやくクリスマス!だもん!」である。自分の秘密を知られ、絶縁を突きつけられるという悪夢(余談だが、この悪夢には虹ノ咲さんから見た各キャラの性格が反映されており、興味深い。特に一切こちらを責めてこないが、淡々と別れを告げてくる桃山みらいの描写は秀逸である)から幕を開ける物語は、虹ノ咲だいあが抱えていた罪悪感を執拗に掘り下げる形で進んでいく。もっとも生々しいのは、彼女が祖母に「具合が悪い」と小さな嘘をついてしまい、その嘘にすら耐えられなくなってボロボロに泣きながら謝り倒すシーンである。完全にメンタルがやばくなっており、怖い。
 一体何が、そこまで彼女を追い詰めているのか。彼女が抱える罪悪感の正体とは何なのか。それは、虹ノ咲だいあが自分自身を嫌っていること、「自分なんか」が友達を作るなんて烏滸がましいと思っていることに原因がある。作中作である『ジュエルの国のお姫様』が示唆しているのは、彼女が自分の存在をマイナスに見積もっており、そんな自分が誰かに友達に「なってもらう」ためには、ドレスという贈り物で埋め合わせをしなければならないと考えている、ということなのだ。なぜ彼女が自分のことをここまで嫌っているのか、その原因ははっきりと描かれるわけではないが、そこがまた生々しい。要するに、小さな失敗の積み重ねなのだろう。うまく相手に話しかけられなかった、友達になれなかった、言いたいことを伝えられなかった……そんな小さな出来事の積み重ねが、彼女の自信を失わせ、自己嫌悪を強めていく。自分のことが嫌いになれば、ますます友達を作るのは難しくなる。そうして新しい失敗が重なり、さらにまた……。悪循環である。
 しかし、彼女を救うのもまた、これまでの積み重ねなのだ。シーズン二を通して、彼女は引きこもりがちだったそれまでの人生とは、少しだけ違った時間を過ごす。みらいたちに関わるようになり、知らなかった人たちに会う。知らなかった場所に行き、知らなかったものを見る。少しずつ、人と繋がっていく。半歩だけ前に踏み出し、ステージに立つ。彼女のそばにみらいたちがいるのは、ドレスのおかげではなく、そうやって彼女が少しずつ積み重ねてきた、小さな時間たちのおかげなのだ。そのことに気づいたとき、彼女はようやく自分を許せるようになる。誰かと友達になりたいと思う自分を許せるようになる。
 「わからなかったらやってみよう」とみらいは言う。シリーズの最初から繰り返されてきたこの言葉は、ここにきて新しい意味を得る。人が何かを「やってみる」のは、その小さな「やってみた」の積み重ねが、自分を好きになる手助けをしてくれるからなのだ。

 このテーゼはシーズン2の終盤、Vだいあの物語にも引き継がれることになる。虹ノ咲だいあが自己卑下を克服し、友達を作れるようになったことで、ナビキャラクターとしての彼女のアイデンティティは危機に瀕する。自分はもう必要ないのではないか?という不安から、彼女は黒ギャルっぽい姿に変身してしまうのだ。(何故黒ギャルなのかは不明)。なお、このアナザーだいあの描写に関して、「Vだいあが自我に目覚めた結果」、あるいは「それまで良い子だった自分を捨ててやりたいことをやるようになった」ものだという意見が結構あったが、個人的には違うと思う。(Vだいあは実際、抑圧されていたキャラクターではない。彼女は彼女でまあまあ好き勝手やっていたのだ)。むしろその逆で、アナザーだいあは彼女が「やりたいこと」を見つけられていない状態、「何をしたらいいのかわからない」状態を意味している。アイデンティティ・クライシスというやつだ。
 元々、Vだいあの出自は複合的である。第一に、アイドルたちをサポートするナビキャラであり、虹ノ咲だいあのイマジナリーフレンドであると同時に、理想化されただいあ自身の姿でもある。しかし、物語が進むにつれて、彼女のアイデンティティは一つずつ奪われていく。そして、「だいあ」という呼び名すらも失うに至り、彼女の心は完全にくじけてしまう。
 全てをなくしたVだいあが立ち直るきっかけになったのは、もちろん虹ノ咲だいあの言葉なのだが、それはきっかけでしかない。心を取り戻す瞬間、彼女の脳裏によぎっていたのは、Vだいあとして自分が過ごしてきた日々の記憶である。虹ノ咲だいあが「やってみた」を積み重ねてきたのと同じように、彼女自身もまた、「やってみた」を重ねてきたのではなかったか。自分の言葉で人々と関わり、繋がりを作ってきたのではなかったか。だから今、自分の周りには友達と呼んでくれる人々がいるのではないのか……。
 必要なのは、自分が生きてきた時間を信じることなのだ。まずは自分を信じること。信じるために「やってみる」こと。二人のだいあの物語が共に描いてきたのは、そういうことなのである。

 もう少しだけ、二期の話をしよう。シーズン2はまた、ミラクルキラッツの魅力的な回が揃った時期でもあった。中でも第69話「発車オーライ!ミラクル☆キラッツ一日駅長だもん!」と第84話「ロケットハート!宇宙に届け!だもん!」は別格に面白い。
 69話はキラッツの三人が東京駅で一日駅長をするという話なのだが、きちんと電車で行って帰ってくるところまで描いているのがミソである。駅員としての活躍だけでなく、電車に乗ること自体の楽しさをきっちり描くところが、いかにもプリチャンらしいと言える。特に帰りの電車(貸切キラッツ号!)にはかなりの尺が割かれており、なんとライブをやるのも駅ではなく電車の中である。普通なら一日駅長として活躍し、みんなから感謝された場面でライブが始まりそうなものだが、あえてそうしないところが素晴らしい。疲れて気だるい身体で電車に乗り込み、一日の思い出を語り合いながらまったりとアイスを食べる……これ以上に楽しい瞬間があるだろうか?
 そして84話の「ロケットハート」。なぜかプリチャンは宇宙をモチーフにしたエピソードが多い(ゲーム筐体には全くそんな要素がないので、これはアニメスタッフの趣味だろう)のだが、その象徴とも言える傑作回である。桃山みらいの伝統芸「ふらふら一人でどっかに行く」が発動した結果、ロケットに閉じ込められて宇宙に飛ばされそうになる終盤の展開は涙なしには見られない。(死を「覚悟」した桃山の毅然とした表情は見ものである)。もちろん、これらは完全な茶番なのだが、この「ごっこ遊び」を真剣にやり抜いている感じこそ、プリチャンという作品のらしさなのだと思う。
 このエピソードで、キラッツは星姉えから新しい曲を譲り受ける。(古臭い歌詞に容赦なく赤字を入れまくる桃山がいい)。こうした世代間のバトンの受け渡しもまた、プリチャンという作品が繰り返し描いてきたことである。かつての子供たちから、今の子供たちへの継承を、本作は何度も描いている。
 しかしまた、大人たちの存在は、バトンを渡したからといって、消えてしまうわけではない。星姉えとキラッツは物語の最後で、並んで夕日を見つめているからだ。誰かにバトンを渡すことは、自分の物語を終わらせることではない。それは、自分の物語を誰かと共に、もう一度始めることなのである。

・三年目
 プリチャンは二期で終わるのではないか?という噂があった。番組の評判こそ良かったものの、筐体の売り上げはやや不安視されていたし、何よりシーズン二が完璧すぎたせいで、誰もその物語の続きを想像できなかったからである。しかし、蓋を開けて見ればそんなことはなく、普通に三年目が始まった。
 シーズン3に導入された新要素は二つあった。プリチャンランドという「テーマパーク」要素、そして「マスコット(のお世話)」要素である。正直、いい予感はしなかった。どちらの要素もプリチャンとの相性が非常に悪く思えたからである。
 プリチャンのエピソードは基本的に、日常生活に根ざしている。一方で、「テーマパーク」は非日常の象徴である。日常のキラめきを見つけることがテーマだったはずなのに、そこに非日常空間が持ち込まれてしまったらどうなるのだろうか。物語のはばが狭くなってしまわないだろうか、というのが一つ目の不安だった。
 そして、マスコットのお世話要素。これはもう女児アニメが玩具の販促を兼ねている以上どうしようもない宿命なのだが、キラッツとは恐ろしく相性が悪いように思えた。何度も述べたように、キラッツの世界観は水平的な人間関係が基本である。しかし、そこに「お世話をする/される」という関係が持ち込まれれば、どうしても垂直的な力関係が発生してしまう。それはキラッツに、ひいてはプリチャンという作品にとって致命的なことである。
 もちろん、こうしたリスクはスタッフ側も承知していたのだろう。結果として三期では、玩具側が明らかにマスコットのお世話要素を売りにしているにもかかわらず、アニメでは全くお世話をしないという歪んだ構造が生まれることになった。特にキラッツたちのネグレクトはあまりにも露骨だったので、それをネタにした回が作られたほどである。この歪みは話が進むにつれて大きくなっていき、ルルナの野望が明らかになると同時に、頂点に達した。彼女は人間がマスコットを世話するのではなく、マスコットが人間を世話する世界を作ろうとしていたのである。これはプリたまGOという玩具のコンセプトに対する、事実上の宣戦布告に他ならない。
 これはある意味で、玩具側から提示されたテーマに対して、アニメが真摯に向き合った結果である。そのテーマとは、要するに「親子」だ。
 シーズン3が親子をテーマにした作品であることは、新キャラクターのアリスやイブの造形からも明らかだし、シリーズ中盤に差し込まれるエピソード「ほっかほか!みんなのファミリーデーだッチュ!」からもわかる。問題は、それまでのプリチャンが親子というものを──より正確に言うなら「大人」というものを、はっきりと描いてこなかったことだ。むしろ「大人」を「かつて子供だった人たち」として描くのが、プリチャンの大きな特徴だったのである。
 その意味で、ルルナはプリチャンの作品世界における、ほぼ唯一の「大人」だったと言える。彼女は最初から大人として生まれた存在であり、かつて一度も「子供」であったことがない。全ての大人が「かつて子供だった人」として描かれるプリチャンの世界において、これは異様な設定である。その根本的な「分かり合えなさ」が、ルルナを強烈な敵役たらしめているのだ。
 シーズン3のストーリーが今までと違うのは、はっきりとした敵役が設定されていることだ。これまでの二年間、プリチャンには黒幕と呼べる存在が誰一人としていなかった(デザイナーズセブンのあの人はちょっと微妙なところだったが)。その点においても、ルルナは特異な存在だと言える。分かり合えない大人、敵としての大人。自分たちの遊び場を奪うものとしての大人だ。ルルナは子供たちが「やってみる」ことを許さない。管理された安全な遊び場の中で過ごすことを望んでいる。(ここにおいて、テーマパークというモチーフは牢獄の意味を持つようになる)。なぜ、そうした強権的な振る舞いをしてしまうのかといえば、それは彼女自身が「やってみた」ことがないから、子供だったことが一度もないからなのである。
 正直にいえば、こうしたシーズン3の試みがうまくいったとは言い難い。難点はいくつかある。やはりテーマパークを舞台にしたことで、特に序盤の展開がバリエーションに欠け、退屈なものになってしまったこと。キャラクターの数が増えすぎて話が散漫になりがちだったこと。また、脚本陣から雑破さんと中村さんが抜けてしまった影響も大きいだろう。比較的しっとりしたタッチの話を書く二人が抜けたことで、シュールな作劇に偏りすぎてしまった感は否めない。何より残念だったのは、歌が奇跡を起こすものとして描かれるようになってしまったことだ。前シーズンまでにおいて、プリチャンのライブは、それがどれだけ感動的なものであっても、あくまでただの歌とダンスに過ぎないものとして扱われていた。歌に特別な力があったり、ダンスで奇跡が起きたりはしなかったのである。(特別な力を与えられるのは、どちらかと言えばコーデの方だった)。しかし、シーズン3のライブは違う。歌には力が宿り、奇跡を起こすものに変わってしまった。違うのだ。プリチャンのライブはただの歌だったからこそ、魅力的だったはずなのだ。ただの歌にすぎないものが気持ちを伝え、人の感情を揺さぶることに、意味があったはずなのだ。

 とはいえ、シーズン3がつまらなかったわけではない。シナリオ面でのいくつかの瑕疵を除けば、作品としては相当に円熟していた。マスコットの三人が増えたことで一気に賑やかさが増し、むしろ作風としては二期よりも若返ったと言えるだろう。(おそらく対象年齢を引き下げることを狙ったのではないかと思う)。最初の1クールは違和感が強く、話もかなり停滞していた(特にメルティックのエピソードがいまいちだった)が、115話でリングマリィが帰国したあたりから徐々に面白くなり始め、結果として見れば十分に楽しめた一年となった。正直にいうと最初の10話くらいは本当に退屈で、コロナで中断されたことも重なり、いったいどうなるのかとかなり不安だったのだが……。終わりよければ全てよし、である。以下、特に面白かったエピソードをいくつか紹介しよう。

 まずは第117話「ハッピーバースデー!えもちゃん友情のプレゼントだッチュ!」。王道にして正道のみらえも回である。この回はシーズン3前半のエピソードとしては例外的に、プリチャンランドが一切出てこない。それだけ特別な回ということでもあるのだろう。(悲しいかな、やはりプリチャンランドが出てこない回の方が面白いのだ)。みらいの誕生日に手作りケーキを渡すべく、えもちゃんが特訓を開始する…というお話である。もちろん、一番の見どころはみらいとえもの幼馴染としての友情なのだが、同時にりんかの振る舞いにも見逃せないものがある。もともと、ミラクルキラッツというのは、みらいとえもの仲良し二人組に三人目のりんかが加わる形で結成されており、どうしても「2+1」的な雰囲気が生じがちなところがある。特に結成初期の頃はその雰囲気が強かった。いくら三人の仲が良いとは言え、過ごしてきた時間の長さは変えられないのだ。プリチャンの三年間は、その微妙な距離感を、りんかが縮めていく話でもあった。(実際、りんかの言動を見ていると、どんどんえもちゃんに対して遠慮がなくなっていくのがわかる)。
 このエピソードの終盤、無事にケーキを渡せたえもとみらいを前にして、りんかは笑いながら冗談を言う。「わたしだけ仲間外れなんてひどいんじゃない?」と。それは、少し前までなら決して口にしなかった冗談である。りんかが「後からきた三人目」であることは、彼女たちにとってある種のタブーであった。それを冗談として、りんか自らが口にしたということ。それは、裏を返せば、彼女が自分たちの友情を心から信じられるようになったことの証なのだ。

 続いては第120話「大ショック!ラビリィの本当のご主人さまラビ!?」。茶釜松らいあという(ふざけた名前の)キャラクターが登場する衝撃回である。このらいあというキャラクター、個人的にはかなり好きなのだが、一部では相当嫌われているらしく、ひょっとするとプリチャンで一番嫌われている人物かもしれない。名前の通り、嘘ばかりつく女の子で、リングマリィからラビリィを奪おうとするのだが、嘘のつき方がまた嫌な感じなのだ。嘘がうまいタイプではなく、下手な嘘を重ねまくるタイプの嘘つきなのである。当然、学校でも息を吐くように嘘をつくせいで友達からも見限られているらしく、境遇的にはかなり悲惨。段ボールで作ったプリたまと葉っぱのフォロチケを持ち歩く姿は惨めすぎて見ていられないほどだ。おしゃまの私服姿が公開された時も彼女たちを心配する声が一部から上がっていたが、らいあはその比ではない。
 この話の何がすごいかと言うと、問題が何一つ解決せずに終わるところである。らいあの虚言癖は最後まで治らない。プリたまも手に入れらない。フォロチケも葉っぱのままだ。にもかかわらず、終わり方にどこか爽やかなものが混じるのは、彼女の嘘の付き方がほんの少しだけ、前向きなものに変わるからである。それまでずっと、自分の過去について嘘をつき続けてきたらいあは、ラビリィと別れるときだけ、未来についての嘘をつく。それが嘘であることは、らいあもラビリィもわかっているのだが、未来に関する嘘は厳密に言えば嘘ではない。ほんのわずかにせよ、そこには嘘が本当になる可能性も混ざっているからだ。嘘をつくことをやめるのではなく、それを少しだけずらすことで前向きなものに変えること。茶釜松らいあのお話は、そんなふうにして終わるのである。

 コロナの影響を受けて制作された第133話「特別オープン!バーチャルプリ☆チャンランド!だもん!」も外せない。ステイホームをテーマにしたこの回では、大雪に見舞われたキラ宿を背景に、みらいたちがバーチャル空間に集って遊ぶことになる。といっても、バーチャル世界に遊びにいく話自体はすでにシーズン二でやっているため、今回のバーチャルプリチャンランドはゲームというよりはチャット空間のように描かれており、話の展開もだいぶ異なっている。この展開というのがこれまた変わっていて、大勢が集まって狭くなりすぎたバーチャル空間を、みんなの力で押して広げる(???)という話になるのである。この回はキラッツの新コーデお披露目回でもあり、コーデの力を借りることで、キラッツたちはバーチャル空間を少しだけ押し広げることに成功する。信じられないようなこの地味さは、しかし間違いなくプリチャンにしか出せない味である。
 あまりにも描写が直接的すぎて逆にわかりにくいのだが、これはキラッツからルルナへのアンサーでもある。ルルナにとって、テーマパークは一種の鳥籠、子供たちを安全な場所に保護しておくためのケージだ。それは時として、当の子供たちにとって息苦しい場所にもなるだろう。それゆえ、キラッツたちは鳥籠を広げ、ほっと息のつける場所に変えようとする。ケージを壊すのではなく、押し広げることによって。それが、非日常に飛び出すのではなく、日常の世界を少しずつ広げていく、キラッツたちのやり方なのだ。

 他にも魅力的な回は多い。おしゃまトリックスがデビューする132話、イブ救出回でありながら力の抜けて展開とオチを楽しめる137話、続く138話のスキー回もいい。何より、全体的にマスコッツの三人(三匹?)が可愛いので、彼女たちがわちゃわちゃやっているだけで、それなりに楽しかった。
 一般的に、キッズアニメも三年目になると主人公たちが先輩になりすぎてしまうため、ターゲット層の子供たちが感情移入できる年下のキャラクターを投入するのがセオリーである。シーズン三が事実上、マスコッツの視点から語られた物語だったのも、そのせいだろう。それはそれで楽しかったのだが、やはり語り手が変わったことにより、キラッツたちとの距離が生まれてしまったことは多少残念ではあったかもしれない。
 シーズン三は縦軸(ルルナ、ソルル、イブ、アリスの四人を軸にした親子関係の物語)の構築にはやや失敗したところがあり、その点においては一年目と二年目に比べてストーリーが弱まっていることは否定できない。しかし、だからといってつまらない訳ではなく、これは要するに、登場人物たちが物語から卒業し始めたことを意味している。三年という積み重ねはバカにならない。日常を重ねていけばいくほど、キャラクターは自立して動くようになり、ストーリーは薄まっていくものである。キャラクターが物語を必要としなくなるのだ。もともとプリチャンはその傾向が強かった訳だが、シーズン三においてその作風が完成されたのだと、そんな風に言えるかもしれない。

・さよなら、キラッとプリ☆チャン
 そして、5月がやってきた。2021年5月30日、第153話「キラッとプリ☆チャン、やってみよう!」が放送され、プリチャンは終わった。終わってしまった。
 良い最終回だった。半年間、ひたすらEDで卒業っぽい雰囲気を出していたにもかかわらず、卒業式を飛ばして高校の入学式を描いたのには驚いたけれど、納得の締め方だと言えた。プリチャンは常に、終わりではなく始まりを描くお話、「最初の一歩」を踏み出すお話であり続けてきたからだ。(一方、最初の一歩を踏み出したあとのことにはそんなに興味がなさそうなのも一貫していた)。プリチャンの世界には、始まりだけがあり、終わりはない。中学を卒業しても、そこで何かが終わる訳ではない。誰かに会えなくなる訳ではない。なぜなら、わたしたちは誰もが、同じ空の下にいるからである。
 プリチャンは別れを描かない。シーズン2の最終話「キラッとつながる!それがプリチャン!だもん!」でもそうだった。虹ノ咲さんの留学という「別れ」の話でありながら、タイトルに入っているのは「つながる」という言葉だ。別れ、というものは、だから彼女たちの世界にはない。距離が近いか、遠いかの違いでしかない。そしてその違いは、彼女たちが繋がっているという事実に比べれば、些細な問題でしかないのだ。
 それは多分、これからの時代を生きていく子供たちのメンタリティでもあるのだろう。卒業は別れではない。引っ越しも別れではない。わたしたちはその気になればずっと、つながりを保つことができるのだ。自分たちが同じ空の下にいることを、こんなに強く実感できる時代はきっと、他にはない。少なくとも、プリチャンという作品にはそんな願いが込められている。

 だから、ぼくたちもまた、プリチャンとの別れを悲しむ必要はないのだろう。シリーズが終わっても、それで全てが終わりになる訳ではない。消えてしまう訳ではない。形を変え、姿を変え、それは確かに残り続ける。
 ぼくたちは「さよなら」ではなく「いってらっしゃい」と言うべきだ。新しい「はじまり」を祝して。終わりではなく、ただ始まりだけがあるのだから。
 わかっている。そんなことは。
 でも、寂しい。
 お願いだ、桃山みらい。行かないでくれ。ぼくを置いていかないでくれ。
 ここはとても寒いんだ。

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