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「異世界からの訪問者」の話

 或日の朝、町を歩いていた。いつもの横断歩道に差し掛かると、道路の向こう側に女性が歩行者用信号機の釦を押しているのが見えた。「(車道側の信号が)青から黄色に変わったなぁ」と見上げた視線を下ろして、驚いた。なぜなら、さっき釦を押した女性の姿が無くなっていたからだ。老生の視界から女性が外れたのは、時間にして1秒足らず。移動したとしても、そう遠くへは行けないはずだ。それが忽然と消えてしまったのだ。そのとき、ある考えが脳内を駆けめぐった。もしかしたらあの女性は異世界(パラレルワールド)からの訪問者だったのではないか……と。
 けれど、話はそれで終わらなかった。不思議な女性を見て以来、周囲に対し何やら説明の出来ない「なんとなく」的な違和感をもつようになってしまったのだ。見慣れているはずの街路樹の枝振りや商店街の看板の色合いなどが、微妙に違っているように感じるのだ。さらに温和な性格の知人も、激情型の人間に変わったような気さえする。
 ふと思う。「先述の不思議な体験は、女性が異世界に消えたのではなく、あの瞬間、老生の方が異世界に迷い込んだのではないか」と。そう言えば、以前、前夜いつもの場所に置いておいた腕時計が、翌朝無くなっていたことがあった。また別の日には、手に持っていたタッチペンがいつの間にか消えていたことがあった。腕時計もタッチペンも今だ見つからない。まさか、老生は幾つもの異世界を巡っているのだろうか。かつて読んだ筒井康隆氏の「果てしなき多元宇宙」の暢子さんのように……。
 違和感は募る一方。老生、現在(いま)も元の世界に戻れずにいる。(了)

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