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教育から、”共育”へ。「未来への共育会議 See you next generation」

野菜を育てることすら出来ない人が人を育てることなんか出来ない。人を育てたければまず目の前にある野菜を育てよ(出自 とある共育者の言葉より抜粋)

この言葉は私が知っている共育者が、何もわかっていない頃の自分に対して放った一言です。この共育者は畑や田んぼを通じて人には何も出来ないことを教え、人は自然の中に住む奇妙な生き物であるということを考えていました。人は自然に手を出せません。しかし、調律師としてならばやるべきことが有ることを考え、それを私に伝えてくれました。

何かを育てるということの手前に必要なのは一方的な教育でもなく、共に学ぶことも重要でもありません。それは本質の後の話なのです。重要なのは「何もできないこと」を知ることから始めなければならないということ。そしてその考えから私の意志が作ったものが、次の世界へ行くためのきっかけを作る「See you next generation」というものです。

この内容を話し合ったのは、私を含めて3名います。そして3名に共通していることは「電気を学んだ者達」そして共通してないことはそれぞれが
「元施工管理士、教育者、農業家」であるという事です。

<話し合い 「これからの先に行くために必要な共育とは?」>

話し合い参加者

・松下色彩研究室 主任研究員 松下一成
・現役農工共育者
・現役教師

目次
1,誰もが否定されず、誰もが考えることが出来る体質を構築する場所
2,学んだことを生かすことは出来ない、自分で環境を整える
3,「物」を作るということは「人を観察することである」
4,共育はどこへ行く?

1,誰もが否定されず、誰もが考えることが出来る体質を構築する場所

そんなに社会は甘くない。と思われるかもしれません。しかし、実際のところ、現状がおかしいのであればこのような形を持って打破するしかないのではないか?と考えるわけです。

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小学生の頃、夏休みの宿題で向日葵や朝顔を観察したことがあると思います。既存の教育という体制の中にも、人を育てるという要素の中にある重要な項目。「植物を自らの手で育てる」ということがすでにあるのです。

しかしながらこれらが現社会で生きないのはそれこそ「平等な価値観」と言う物が根を張っているため、小学生が付けた観察日記に「優劣」をつけて数字で測ろうとしてしまうからです。これは子供が思ったことや感じたことに点数をいい大人が付けてしまうという「最高級な贅沢をしている」と言うことになります。

「前時代の評価」はもうそれほどいらないのです。

テクノロジーの進化によって簡単にそれっぽい正解にたどり着くことが出来ます。この場合は「先生の評価が上がる観察日記の付け方」と調べればそれっぽいのが出てきてしまうほか、「いい評価を貰うためには試行錯誤をして失敗するよりも実際に育てないほうがいい」という回答になります。これは失敗=評価が下がるという事だからです。本来なら失敗は財産ですが、現状だと失敗はやってはいけないことだと大人たちが堂々と教えています。他人が言っていることをそのまま書き写したとしても変わらないのは、そこに同じ評価基準があるためです。

だからこそ、相手は本来受け取るべきものを受け取らず、次第に「当てはめることが上手くなっていく」ことになります。そのため本来は「多様的」になるはずの観察日記も誰しもが求める結果になり、社会は「平坦化」していきます。

過去も現代も変わらず「先は見えない」ですが、これでは先が見えないからと言って自ら目を開けることをしなくなってしまい、誰かの言葉に従い続けることになります。

先が見えないことはわかりきっています、だからこそ目を開けるのです。

誰もが否定されず、誰もが考える世界はすでに存在します。それが一人の時間です。この一人の時間、ゲームをしてもいいし、読書をしてもいい。youtubeを見たっていい。しかし、他人の意見を取り込まず、誰も評価しない。つまり「今溢れてしまっているゴミのような評価を受け取らない」ということがこの場所を作ることが出来るのではないか?と思うわけです。

新しいものが生れる場所を古代の人たちはカオスと表現していました。しかしカオスと言う状態を気軽に集まった現代の人々の群れ見出すことは容易ではないです。もはや現代の人たちは何かしらの規範や規則、調律を守っていますし、固定概念にとらわれて、行動を同じにしています。そのため見つめることの出来るカオスと言うのは自分の中、そして手つかずの自然の中にあります。そしてそれらを自らの手で調律出来たとき、初めて美に繋がるコスモスという概念になるのです。コスモスというのはカオスが規律を持つことで生み出される美しさを表しています。

2,学んだことを生かすことは出来ない、自分で環境を整える

子供たちが楽しく学べる場所は大抵の場合わかりません。しかし、子供たちが安心して学べること=安心して失敗できる環境を提供してあげることは出来ます。学びとは与えられるものではなく、失敗することすら安心できる状態。つまり大人たちは半分放任主義的な立場から見なければならないと考えています。

大人たちはその場を提供したら後は「にっこりと微笑み、子供たちを観察し続ける」ことだけが必要です。

学ぶという行為の本質は「観察することにある」と私は考えています。断っておくと「見ているだけ」ではありません。必要なのは観察です。それはある問題を相手に与えて、それらをどのように工夫して表現してくるかを見つめるだけです。与える問題に対して答えのようなものを用意してしまうと全く意味が無くなります。

この場合の答えというと、例えば「絵画や造形」といったものが得意な人に芸術的価値を見出し、将来は「芸術家」になればいいという安直な思考を大人たちが辞めることです。その表現は一人の人間が導き出した、己の中にある答えです。そこに価値が有るか無いか、生業にしていくかは自分で決めればいいのです。

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STEAM教育と言う物が存在します。これは科学、技術、芸術、工学、数学という分野を総合的に学べる新しい概念です。

これ自体に対しては確かにと思うところもあります。

しかしこのことについて我々がしばらく考えるとここに必要な中心的存在である生命が足りていないことに気が付きます。

これら提示された5つの分野だけでは生命を維持は出来るかもしれませんが生み出すことはほぼ出来ないと考えています。これら5つの分野は全て先人たちが生きている自然や動いている星たちから導き出したモノです。そうです、生きている自然界からすでに理論として無機物として導き出されたものです。

元々一つの概念のモノを5つの分野にして区切って考えてしまうというその頭が社会を複雑化しているのです。昔はそうでもなかったのですが、近年では意味なき効率化ばかりが先立つため、理論や論理が先走ります。その前に植物の生長を観察することをしてみましょう。得られるものはなんでしょうか?

彼らは大抵の場合放っておいても勝手に育ちます。生命は放っておいてもある程度育つのです。ただし、実りをもたらすかどうかは与えるものによって「価値が変わってきます」ここにどのような方策をすれば人にとって豊かな実りになるのか?を考えるだけでこの5つは全て網羅できます。

もちろん、先に挙げた5つの分野の専門的な追及教育は必要でそれは今の便利な世の中を続けていくために伝え続けなければいけないことです。

現代人の悪い癖が「前の時代の産物を悪しき風習のようにしてしまう」ことです。学びを得るのであればそういったかつてあったものを見直し、いいところは取っていくべきであり、残すべきもの、必要なものはやるべきだと考えています。

これは私が電気を学んで得たことです。電気理論は今から昔にテスラやボルトのような偉人たちが確立しました。それを現代の何も知らない私が学んだことでそれを社会に生かしてこの社会を継続する一端を担うことが出来ていました。

なので私は前の時代にあったものを否定することはしません。むしろ必要なものですが、必要以上はいらないと言いたいのです。

この学びが社会に還元されるとしたら変えるべきは自分の意識です。時代や社会を「無機物」としてとらえていてはいつまでも実らせることは出来ません。なぜなら時代や社会は人が作り出した「有機体」です。つまり生きています。生きている物を変えようとしたとき、理論と言う生きていないものをいくら繋ぎ合わせても生かすことは出来ません。

若者は自分が日本の未来を変えることが出来ないと考える人が多いと言います。これは当たり前です。若者たちが学んでいることは「無機物」だからです。意味のある無機物だけを大人たちが与えているからです。もし、社会を変えたいのであれば「有機体」つまり一番近くにいる自分という有機体から見つめなおす必要があるためです。

3,「物」を作るということは「人を観察することである」

私は中学生の時、「名字が同じ」という安直な理由からパナソニックの創業者である松下幸之助氏の本を何冊か読んだことがあります。

その結果、私は高校、大学と電気を学ぶ道を選択しています。

その大きな会社の創業者から私が学びえたことは

「物を作るということは人を観察すること」そして「時代に即していく」と言う事です。

松下幸之助氏が居た時代は電球すら一般的ではなく、現在では白物家電が行っている家事と言う分野が大きな負担になっていた時代です。

氏は人々の生活を観察していたのです。そのために自分に何が出来るのか?何を求めらているのかを実行したのです。

私は今までの人生の中で得たものの中に、その時代を見ること、社会を見ることは生きている物を見つめること。そして厳密に言えば人は人を育てることが出来ないという事実を誰かが教えてくれました。

「我々は稲を育てること」すら出来ません。育てたつもりになっているだけです。我々に出来ることは「場所を提供し、議題を投げかけることが出来るか」と言うことだけです。これは松下幸之助氏の本からも読みとることが出来ます。

この議題を常に投げかけ続けるということが商品開発・先の時代に繋がると私は思っています。松下幸之助氏は商品を提供するという形で議題を社会に提供し続けたからこそ、「便利だ」とか「これは面倒だな」という回答が社会から帰ってきたのです。

その投げかかる議題が死んでいては意味がありません。松下幸之助氏は生活というまさに生きる分野に関して成果を出したともいえると言えます。

そのため株式投資の分野で立ち上げた「ナショナル証券」というものはそこまで上手く立ち行かなかったのでしょう。

時代はかつての時代から成長して変わりました。その時に学んだことを安直に「ヒット商品を作るためのノウハウ」としてでしか捉えることが出来ないのであれば先はないと考えています。

私が松下幸之助氏から学んだことは「常に議題を投げかけることが出来る環境を整えることが出来るかどうか」と言う事です。

そして現代に置き替えた時、松下幸之助氏の時代と同じ点と違う点があります。

それこそが時代と言う繰り返される有機体が生み出した結果です。

前の時代にあった戦争は街を焼き尽くしました。焼け野原の中、人々は次の時代を作り上げるため、人たちの生活を豊かにするために必要な「物」を作り続けました。家電、自動車、農作物・・などなどです。そしてそれらは戦後80年過ぎ去り、気が付いてみるともう必要で最低限のものは揃えることが出来てしまいました。

当然私は戦後を体験していませんが、当時は物が余るということはほとんどなかっただろうと思います。食料品の廃棄なんか考えられなかったでしょう。

その結果、現代ではその先人たちの積み上げによって物があふれる豊かな暮らしになりました。それどころが増えすぎてごみ問題で困っているほどです。

要するに、すでに満ちている物を過剰に生産することがごみを増やすばかりではなく、不景気が改善しない理由の一つでもあります。

しかしながら、現代の会社はその系譜を変えることが無いままここに至っています。要するに物が有るのに物を作らなければならないという市場経済のスパイラルから抜け出すことが出来なくなってしまっているのです。

そのため商品に付けらる付加価値というものが増えました。冷静に考えた時、冷蔵庫にいらない機能が付きまくっているのはそれが原因です。今の世の中は戦後と同じ状況です。世の中がものであふれているか、あふれていないかの違いだけで、全く新しいことを始めなければなりません。

私たちは既存のモノに対して「足し算」のみをしています。これから必要なことは「引き算」です。足し算、引き算が理解できればその後に掛け算が出来、横着が出来る割り算が出てきます。

積み上げることと足し算は相似です。似ています。似ていますが同じではありません。例えば生きるために食べることは必要です。生きるためにあなたはここまでの年月、自分の体に食べ物の栄養を集めてきました。そしてそれを消費して生きていきました。しかし、それ以上の食べ物を食べるとどうなるでしょうか?

そうです、肥満になるのです。余計なものが贅肉となって体に染みつき、その人本来の運動性能を阻害してしまうのです。

そして人はその後どうするかというとダイエットを始めるのです、余計に食べすぎたせいで、後々ダイエットが必要になってしまうのです。

これは例え話ですが、スリム化が省エネルギーになることは何となくイメージしやすいと思います。

先人たちは焼け野原を整備して家を建てた。その上にいま私たちは生きている。ということを本質的に理解すると感謝と尊敬の念と共に次のような疑問が湧いてきます。

「私たちはこのあと何を作ればいいのだろうか?」

その象徴として、近年ではゲームやアニメが目立つようになり、それに伴い、ライブ配信などがかなり流行気味になっています。それも個人単位でです。これは若い人達の間でとても流行っていることです。もちろん生活を継続するための物を作る必要や改善は必要ですが、自動化・テクノロジーが進む現代ではそこまで多くの労働者と就労時間を必要としないことは明白です。

このため過去に比べ、圧倒的に個人の時間が空きました。

それに本能的に気が付いた若者たちは、物ではない何かをもう一つの自己表現と言う形で様々なものを提供しはじめたのです。イラストレーター、小説家、漫画家、ゲームクリエイターなどです。楽しいという空間や癒しという実体験。そしてゲームや映画と言った疑似的な体験がもたらすものは創作意欲の欲求だと私は観察しています。

かつて企業は人たちの受け皿でした。しかし、時代が変わりました。企業はこれからもっとマニュアル化が進み、誰しもが単純に働くことを提供できる場所として存在してくだけになるかもしれません。そして企業に勤めながら個人が活躍する時代が到来している今、企業は何をしていけばいいのでしょうか?

私としてはもっともっと個人に出来ることの枠組みを広げてあげることが企業のこれからの可能性だと信じています。ありえないかもしれませんが

「個人で車を作ること」
「個人で映画を撮ること」
「個人でゲームを作ること、アニメを作る事」

などこのような個人単位の活動に着眼してそれらをもっと気軽な窓口に出来る企業がこれから先を切り開けるのだと私は観察しています。

もちろん個人単位で出来ることは限られています。そのための一つの輪っかを企業が締結することが出来ればと思っています。

4,共育はどこに行く?

子供たちとの共育と同時に「企業と個人の共育」という概念も生まれてきます。実はまだあまりここら辺に関しては手薄なのでチャンスだと私は見ています。

先ほど、企業は個人を繋ぐ輪っかに出来ないかと言うことを述べましたが、これの先走りのモノがあります。

それがSNSのグループです。あるアイドルを応援する、ある作家を応援する、ある作品が好きで集まる。と言うようなことは過去にもありましたが、現代ではSNSを介してより気軽により簡単に出来るようになりました。

しかし、それはまだ過去の時代の産物のままです。松下幸之助氏の言葉を借りるのであれば受け皿乗っかっただけ、箱に入った状態です。

つまり、繋がりが全くないのです。繋がりが無いからこそ、新しいモノづくりをすることが出来ないのです。いわば調律師が不在の状況です。ただ集まっただけでは先ほどの5つの理論を学んだだけと言う状況と同じことです。

企業はそこにテクノロジーと可能性をつぎ込むことが出来る立ち位置に居るのです。すなわち企業が調律師となることが出来るのです。だからといって無理やり新たにSNSグループのようなものを立ち上げる必要はなく、SNSグループのつなぎ的存在の物を提供できれば可能性は今よりも広がると私は思っています。

例えばあるアイドルグーループを応援する人たちのSNSグループに100名いるとします。彼らは繋がっているようで繋がっていません。学校と同じ感覚で、箱に収まっている感覚です。

「私たちは応援することしかできない」という可能性しかないからです。

しかし、そこにある雑誌編集者がこんな依頼をしたらどうでしょうか?

「あなたたちの応援するアイドルの魅力を何か形にしていただきたい」

と。

この言葉を受け取って、行動を起こす人間、起こさない人間、批判する人間、否定する人間が出てくると思います。
これらをメンドクサイと思ってしまうと前の時代の感覚です。これらのようなことをメンドクサクしないために過去には箱があって、押し付けがあるのです。いわば調教師の感覚です。

ここから先は調律師です。調律師になった気分でこの人たちを導き、当てはめる必要性がでてくるのです。

情報が有る程度限られた世界では調教という概念が許されていましたが、今の時代、個人がこれだけ広大に繋がったとき、かつての強制にも似た調教が出来なくなってしまっています。

そうです、個人が自分で情報ややることを選択するという時代なのです。

そこに前の時代の企業的感覚や意味の無い理論を押し付けることをしたとしても上手くいきません。それが調教なのです。

これから必要なのは先に述べたようにSNSという「何かを追い求めてる人たちの集合体=カオス」の状態の中から「それらに対して調律を行うことが出来れば美しさを持つコスモス」へと変えることが出来ると考えています。


最後に

この文章はパナソニック_ソウゾウノートさんの

という記事を自分なりに受け取り真似をしました。

もし、あの場に私が居たらああいう人たちに混じることが出来たとしたら、自身の考えでどう答えるだろうか?と言うことを考えながら書きました。

もし、この文章がパナソニック_ソウゾウノートさんのここでの活動を邪魔してしまうのであればご一報ください。

直ちに削除いたします。

長々とお付き合いいただきありがとうございました。

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