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なぜ、民間の文学賞なんてものを作ろうと思ったのか。

まず大前提、この文学賞創立を考えるキッカケになった3つの願いから。

❏3つの願い
①良いものが、広がる世の中であってくれ という願い
②良い本と出会いたい、読書人口が増えてくれ という願い
③自分たちの「好き」という気持ちを肯定したい、してほしい という願い


①良いものが広がる世の中であってくれ という願い

「良いだけじゃ、売れない」って一度は聞いたことありませんか。

現在、PRというものはかなり重要な位置を占めるようになりました。良いものを作っても知られなければそのまま朽ちていくだけ。だから「宣伝方法」というものが、とかく重視されます。

今では、広告による収益モデルも乱立して無料のサービスや動画なども珍しくない時代になりました。

個人的には
「ものが良いだけでは売れない」から「売る仕組みを作ろう」
というロジックだけになることは疑問を感じていて

「だったら、良いものが評価される仕組みを作ろう」
というロジックも、もう少し出てきても良いのではないかなあ、とか思っています。

まあ、こちらの話は傍流です。
※こっちに関しても活動しているので、また折を見て報告します。


とにかく、どれだけの注目度を集めるかは、現在のマーケティングにおける死活問題になってきていて、最近では炎上商法なんてものまで共通語になりはじめました。

けど自分は、この「ものが良いだけじゃ売れない」という言葉には
注意書きが付くべきだと考えています。

それは

「良いものは売れないかもしれないけど、残る」

というものです。


当たり前の話ですが

仮に自分が次の世代に、なにかしらの本をおすすめするとしたら
「これは自分が若い頃、100万部のベストセラーになった本だ!
という理由で勧めることはありません。


自分の人生を変えてくれた」、「もっとも感情を揺さぶられた
そういう本を伝えていくと思います。
※売れている本が違う、とかそういう話ではありません (^^;)

別にカタチに限った話ではありません、考え方や優れた技術など、次に伝えていくのは
「売れたか、売れていないか」でなく「優れているか、いないか」
だと思っています。

だから先程の話をもっと噛み砕くと
「良いものは、横に広がりはしないけど、縦に繋がっていく
ということを信じています。

けど、縦に繋がるなら、横に広げることも可能なんじゃないか?

というか……
今! ここに面白いもの、価値あるものがあるなら、私が知りたい!
それを知る方法はないのか!?

はい、個人ニーズでもあるのです。笑
でも、良いものが広がっていけば、もっと良い時代になるんじゃないかと考えているのも事実です。

これが①であげた「良いものが広がってほしい」という願いです。


②読書人口が増えてほしい という願い

そして、その願いは読者人口が増えるということにも繋がっていきます。

自分が思うことですが「良い本と出会えるか」で、
その人が読書好きになるかの多くが決まると思っています。

自分の恥を晒します。

大学時代初期、かなりこじらせていて
「良いものはわかるやつにしか、分からないのだ」みたいな
うぬぼれ甚だしい勘違いをしていました!!
ひぃ、恥ずかしい!!
※この話もまた、どこかでできればと思います💦

でも違うのです。

普段から本を読まない人でも、夢中になれる本と出会えれば一日で読み上げてしまいますし、お勧めを紹介したら、自分よりものめり込んでいく人なんて沢山います。
※実体験です。笑

そういう人なのだ、ではなく
そういうものと出会えていなかったのだ
が真実なのではないでしょうか。

そして、「なぜ、出会えていなかったのか」という疑問が生まれたとき
どうしても「声が大きなものが注目を集める世の中」ということと
無関係でいられないのです。

昔と比べると沢山の選択肢がある現代ですが、
圧倒的な選択肢が逆に、選択を狭めるというのは本当だと思います。

豊富なメニューの中から、「当店一番人気」を選ぶのは
その人がミーハーだから、とかではなく
選択肢が多すぎてわからないから、
というのが真実の一面じゃないでしょうか。

その人が出会うべきものに出会えていない現状。
自分自身が出会えていない可能性。
ここに「もったいなさ」や「もどかしさ」を感じるのです。

もし素晴らしい出会いが増えれば、読書好きの人も増える。
皆で良いものを伝えあえれば、巡り会える可能性はさらに高まる。
これが二つ目の願いの背景です。


③自分たちの「好き」という気持ちを肯定したい、
 という願い

そして最後に
ちゃぶ台をひっくり返すような発言になりますが

これだけ「良いもの」、「良いもの」を連呼しつつ
「じゃあ、良いものって何?」と言われたとき
僕は明確な答えを持っていません。(^^;)

ただ、ヒントのような体験はあります。

わりかし自分は絵画などを見るのが好きで、
有り難いことに名画と呼ばれるものを目にする機会に恵まれてきました。

ただ、その全てに感動した訳じゃありません。
実はちょっと違うものに感動を覚えることも少なくないのです。

フェルメールの「牛乳を注ぐ女」より「地理学者」に感動しました。
ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」より「岩窟の聖母」に感動しました。

本だって同様です。

太宰治の「人間失格」より「きりぎりす」が好きですし
志賀直哉の「城の崎にて」より「流行感冒」の方が心の琴線に触れます。

ある程度の絶対的な素晴らしさ、というものは存在するのだと思います。

けれど、それらは言ってしまえば100点満点中の80点、90点になるものだと思っています。
誰かにとっての100点満点の作品というのは、自分たちの想像以上に多様なものなのではないでしょうか。

ただ、本をはじめとした芸術と呼ばれるもので難しいのは

「理解できない、自分の感性の乏しさ」が「悪い」
と解釈もできてしまうところです。

多くの人が、特に謙虚な人ほど、持ちやすい感想ではないでしょうか。

だから「これを100点満点と思えない、自分が悪いのではないか
という考えが生まれることも理解できます。

でも、個人的には「そんな訳あるか!!」です。
これだけ生き方に多様性が生まれた現代で
百人が百人感動するものなんてあるはずがない、と思っています。

もしそんな事態が発生すれば、僕は
「集団的な同調圧力がそうさせている」か
「なにかヤバいところに首突っ込んだんじゃないか」と疑います。笑

「みんな違って、みんな良い」なんて、
安易なことを言うつもりはありませんが

少なくとも
100点満点の作品は、その人にとっての100点満点にしかなりえない。
というのは事実だと思います。

もしこの民間の文学賞が、純粋な「読みたい」という気持ちだけで選書し
世の中が期待するものと同じ答えだけじゃないとしたら
少しは、ほっとする人もいるんじゃないか。

そんなことを思っています。
好きなものを追求する、というのは、これからの時代において
かなり大切なファクターです。

働き方などが変化していき、自分の感性がコンパスとなる日が近づいているように感じます。その時、指針が示す方角を信じることができるか、というのは、想像以上に大切なことなのではないでしょうか。

これが3つ目の願いの背景です。


心の赴くままに、駄文・長文を書いてしまいましたが
これが「現時点で」自分が思い、民間文学賞を創りたいと思った理由です。

もし僅かでも共感していただける部分がありましたら、応援いただけると嬉しいです。^^

拙文失礼いたしました。

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