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人生ってやつは・・・

前回、行きつけの大好きなお店について謎の長文記事を書かせていただいた。書き進むうちに愛が溢れすぎて自分でもどうかと思う記事に仕上がったが、ある意味正直な気持ちを綴ったとても良い記録になったと思っている。「好き」というのはなかなかすごいエネルギーだ。

実はちょっと好きのテイストは異なるが、僕がまだ20代の頃、週の半分以上を通い詰めていたBarがあった。この時期になるとそのBarを思い出す。深夜の謎note執筆2作目は、若い頃のダメダメな自分を支えてくれたそのBarとマスターについて書いてみようと思う。



新宿のはずれの地下にある


当時20代、東京に出てきたばかりの僕は新宿で働いていた。身も心も磨り減らしながらハードに働く毎日だった。今思えばどんな経緯でそのBarに入ることになったのかはさっぱり覚えていないが、新宿駅東口からISETAN方面にほどなく歩き、五丁目界隈の路地裏の雑居ビル。

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小さな置き看板の横にある細く薄暗い階段を下りていくと、B. B. Kingの白黒ポスターの横に一枚の扉がある。

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その扉の先が、僕が20代の頃通い詰めた場所だった。カウンターが数席、奥が小さなテーブル席という初老のマスター(Mgさん)が一人、ロックとジャズをレコードで聴かせる小さなBarだ。


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おつまみはすべてマスターの即興手作り。といっても手の込んだ洒落たものは出てこず、マスターの気分次第。僕にはなぜかいつもポテトサラダに目玉焼き乗せソース多めといった中学生の朝ご飯のような大盛りのお通しをいつも出してくれた。働きづめてクタクタになった状態でカウンターに座るため、まずグラスビールと大盛りのお通しで一息つき、そこからお酒と音楽を楽しみながらマスターと他愛もない会話をするというのが日常になっていった。


エリッククラプトンを聴きながら


当時、東京に友人も少なく、ましてや彼女もいない、日々仕事で身も心も疲れ果てていた自分のしょうもない話をのらりくらりと聞きながら、「まぁ、なんとかなるんだ若者よ。楽しめ楽しめ。」と煙草を燻らせ軽く笑い飛ばしてくれたことが自分にとっての救いだったのかもしれない。

「Change the World」 は、アメリカのミュージシャンであるトミー・シムズ、ゴードン・ケネディ、ウェイン・カークパトリックが制作した楽曲である。1996年の映画『フェノミナン』のサウンドトラックに収録されたエリック・クラプトンが歌ったバージョン(ベイビーフェイスがプロデュース)が、グラミー賞の最優秀レコード賞・最優秀楽曲賞・最優秀ポップ男性ボーカル賞を受賞し、RIAAが選んだ世紀の歌では270位にランクされている。Wikipediaより引用

どんなに仕事で疲れていても、クラプトンのレコードを聞きながら、死ぬほど冷えたボンベイ・サファイアのロックをあおり、マスターに愚痴を笑い飛ばしてもらう。そんな時間が至福だった。明け方までやっているこのBarは、終電間際までほぼ客は僕と1~2人いるかどうか。23時を過ぎたあたりから酔い客がパラパラと増え始めて店内は若干賑やかになってくる。そのあたりが僕の引き際だ。そうして一日をリセットしてまた明日を迎える。このBarはこんな僕の生活の一部となっていった。

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このBarで教えてもらったこと、それはエリッククラプトンとボンベイ・サファイアを味わいながらの一日の終え方、気持ちのリセットの仕方だった。


舞台照明からBarのマスターへ


マスターは昔、舞台の裏方として照明をやっていたという。Barの店名はそこからきている。若いころに打ち込んだ照明の仕事から、どういう経緯でBarのマスターになったのかはこれまた覚えていないが、いまも充実した人生だといつもいい感じで笑っていた。「楽しいことをやる。だから、人生ってやつは面白い。楽しんでいればなんとかなんだよ笑」って。その一言で何度心が軽くなったかわからない。


かれこれ5年以上は通ったそのBarだが、一時期仕事が超多忙になり半年以上通えない時期があった。ようやく仕事も一段落したある日、ふと久しぶりに帰りに寄ろうと思い立ち、一本電話を入れた。普段は帰り道にふらっと寄るのに、なぜそのとき電話をしようと思ったのかはわからない。

その日電話に出たのはマスターではなかった。

「あれ?バイトの方ですか?今日マスターいますよね?久しぶりなんでちょっと確認しとこうと思って」

というようなことを言ったように記憶している。が、それに対する返事は良くない意味で自分の想定を裏切るものだった。

「お客さん、聞いてないですか?Mgさん、階段から落ちて脳出血で入院してるんですよ」

聞くと結構深刻な状態のようだった。電話に出た彼が当面の代打、もしものときは店を引き継ぐことになるかもしれないということも聞いた。それでも通い詰めた大好きなBarである。その後また何度か店を訪れたが、、

そこはなんというか普通のBarになっていた


マスターの復帰と常連さんの愛


そして、その後数か月たった頃、マスターが退院したこと、店にまた立つという話を聞いた。本当に本当に嬉しかった。

マスター復帰の日、Barは早い時間帯から常連で溢れていた。僕もはやる気持ちが抑えきれず、いつもより早い時間に到着し、扉を開けてマスターと対面した。「いや~久しぶり!大丈夫!?・・」と言いかけた言葉が途中で詰まってしまった。マスターの様子はあの頃とは大きく異なっていた。

目が若干虚ろ、手元も覚束ない、会話も少したどたどしい。また会えて嬉しい、命の危機を乗り越えて本当良かった、でも・・・、、なんと表現してよいかわからない複雑な感情になったことを覚えている。

ただ、その常連で溢れるその狭いBarの店内では、あの頃のマスターとじゃれあうようにカウンターに入り、さりげなくマスターをサポートする年配の常連さんや、酒の分量が多少違っていても、たとえこぼれたって笑って受け取る常連さんなど、愛に溢れまくっていた。とてもとても素敵な場だった。この日は、自分の話なんかはどうでもよく、皆でマスターをサポートしあいながら、遅くまで皆で笑って、お酒と音楽を楽しんだ


そこから、マスターが亡くなったという話を聞いたのが数か月後だった。そう、それがこの時期だ。


マスターは、亡くなる直前お店を引き継ぐ彼に、「早い時間からボンベイのロック飲んで愚痴ってくる馬鹿がいるから、話に付き合ってやって笑」と言っていたそうで、僕が後日Barを訪れると、「Mgさんからお話たくさん聞きました」と言ってくれた。


心が支えられるということ


自分自身、身近な人を亡くすという経験もまだあまりない年齢だったこともあり、もう二度とマスターには会えないという事実を受け止めるのにとても時間が掛かった。東京に出てきて、右も左もわからず、頼れる人も多くない20代の頃、マスターとこのBarにどれだけ心を支えてもらったかわからない

強い酒をキュッとやり、クラプトンをレコードで聴きながら、楽しんでいればなんとかなるんだ人生ってやつは、って緩い笑顔で言ってくれたあの時間が今の自分の生き方にそのまま繋がっている気がしている。

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マスターあのときはありがとうございました。

僕の人生、いまを楽しみながら、しっかりなんとかなっています。



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