掌編小説 『簾の奥』 町下 樹(マチシタ ナオキ)

 春がはじまり少し経ったある日。桜は数日前に満開を迎えたがその様子を藤原因香朝臣は病気で気分がすぐれなかったため外の野桜を見ることはできなかった。しかし誰も見る者はいなくとも春のやわらかいひかりで桜は輝いていた。小間使いは気の毒な主人を想って桜の枝を折ったものを部屋に運んだ。藤原因香朝臣はその美しさに外の桜を見られないことの無念さをより一層募らせた。
 春の風さえ体にしみるほど藤原因香朝臣の体は弱っていた。彼はその気持ちの良い風を感じることもできないまま簾の奥で苦しさに耐えていた。せめてもの気晴らしにも、と小間使いが持ってきてくれた桜を眺める。その枝の下には数枚の桜の葉が落ちていた。ああ、私は春の移ろいも知ることができず、桜もすぐに散ってしまうんだなあと藤原因香朝臣は思った。その部屋の中の桜は以前よりも少ししおれていた。
 藤原よるかの朝臣は桜をもう見ないようにしようと思った。しかし視線は自然と簾の方に向かっていた。まるでその奥を見透かそうとするみたいに。簾は静かに揺れていた。
 外では桜が庭の上を渦巻のように舞っていた。風が一時的にやむとそれらは静かに降下し、地面を春色に飾っていった。地面が隙間なく彩られても、風はまだ桜の木吹きつけて花びらを落とし続けていた。木に咲いた桜の花は一向になくなる気配を見せなかった。空におおきな桜色の雲が浮かんでいるみたいだった。
 小間使いは真上から降り注ぐ熱い日の光を受けて、もう夏も近いな、と呟いた。

参考資料
古今和歌集巻第二・春歌下・八十番歌

心地そこなひてわづらひける時に、風にあたらじとておろしこめてのみ侍りけるあひだに、をれるさくらのちりがたになれりけるを見てよめる  
たれこめて 春のゆくへもしらぬまに まちし桜も うつろひにけり (藤原因香朝臣)

現代語訳
病気にかかり気分が悪くなっていた時に、風にあたらないでおこうと思い簾を下ろして閉じこもっておられるあいだに折った桜の枝から花が散っているのを見て詠んだ。
  簾を下ろして閉じこもり春の移り変わりも知らない間に待っていた桜も散ってしまったのだなあ

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