掌編小説 『住宅地』 町下 樹(マチシタ ナオキ)

 
 僕が彼女に再会したのは成人式の日だった。再会、といっても僕たちはそれほど親しいわけではなかった。彼女とは高校が別だし、中学校の時に一緒になっただけでそれほど親密に話をしたことはなかった。
彼女は美人と言ってもいい部類に入る顔立ちだったのだがある種の人を寄せ付けないような雰囲気があった。そのため彼女が学校で特定の誰かと話し込んでいる姿を見たことがなかった。
 夕食の席で彼女が隣になり話をする機会があった。二十歳になっても彼女の美しさは保たれたままだった。中学生の頃に見た強く強靭な美しさだ。彼女はまだ一人で教室の隅から校庭に伸びる影を静かに見つめていた。
 最初はぎこちなさが残る会話だった。しかし話していくうちにちょっとした共通点が見つかった。東京の大学に通っていること、カポーティを読むことなどだった。そして僕らは今までの空白を埋めるくらいの話をした。彼女は口下手なイメージだったからこれだけたくさんの話をすることに少し驚いた。僕はジン・トニックを三杯にビールを一杯、彼女はモスコミュールを二杯飲んでいた。 
だから今からする話は曖昧なところがあるかもしれないし、多少僕の脚色が加わっているかもしれない。何といっても膨大な話の中の一つだったのだ。ここで語るために細部を思い出すのにもかなりの時間がかかった。当時はこの話にピンを指すかんのようなものを持ち合わせてはいなかったのだ。しかし話の軸は決してずれてはいない。今思えばその他の話とは明らかに質が違ったのだ。
 彼女がこの話をしてくれた時はもう会の終盤だった。
「ねえ、何か不思議な話とかないかな?」と僕は訊ねた。
「難しいわね」と彼女は少し考えてから言った。
「なんでもいいんだ。ちょっとしたことでも構わない」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「人の話を聞くのが好きなんだ。世間話じゃなくて、ちょっとした物語みたいな」と僕は四杯目のジン・トニックを一口飲んで答えた。
「そうね……」彼女はしばらく黙り込んでいた。「このことを誰かにしゃべるのは初めてなの。なにか君にはそういう魅力があるみたいね。なんでも話せそうな気がするのよ」と彼女は言った。僕はどういう顔をしていいか分からなかったのでジン・トニックをもう一口飲んで話の続きを待った。彼女は僕の顔を少しの間見ていたが、やがて話し始めた。
「昔集合住宅地に住んでたの。そこら一帯が一つの島みたいに機能してるところ。うすらでかい団地が何個も並んでいて、近くにスーパーマーケットや薬局があるのよ。そのエリアからでなくても住民の生活は成り立つようにできてたわ。住宅地内で仕事して本格的に外に出ない人もいたみたいだけど。そんなのって想像できる?」
「分かるよ」と僕は言った。店内は話し声と音楽でひどく騒がしかった。しかし彼女の声だけは直線的に僕のもとへ届いた。

 彼女がその住宅地に住んでいたのは中学校までで、高校からは一人暮らしを始めていた。このような閉鎖的な場所で生活していると遊ぶ相手や場所なども必然的に固定されてくる。彼女は数人の友人と道路に面するちょっとした空き地でよく遊んだ。室内は狭く息苦しいというのもあり彼女たちは外で遊ぶことが好きだった。よく車が通り人の目もあったので彼女たちは安心して遊ぶことができた。
 それは彼女が小学校高学年のころだった。太陽は輝いていたが団地の影がどこか陰鬱な雰囲気を生み出していた。いつもの場所には一人を除いて誰も来ていなかった。そういうことはよくあったので彼女たちはたいして気に留めずいつものように遊んでいた。しばらくして彼女はいつもと何かが決定的に違っていることに気づいた。

「空気が止まってたのよ。うまく説明できないけど」と彼女は言った。
「時間じゃなくて?」と僕は言った。
「そういう言い方もできるわね。私たち以外の時間が止まっていたような。車は一切通らなかったし近くのバス停にも誰もいなかった。バスは必ず十分おきにくるようになってたの。でもバスは来ない。人もこの日だけは全く通らなかったわ。いつもなら買い物に行く主婦や散歩してる老人なんかもよく見かけたのに。でもその日だけは私たち二人だけだったわ。本当の意味でね。こんなことってあるかしら」
「君が何かの原因で人が少ないのを過敏に感じ取ったのかもしれない。バスだって渋滞に巻き込まれて遅れることだってある」と僕は試しに言ってみた。
「ねえ、そんなのじゃないのよ。あのバスは絶対に遅れたりしないわ。気味が悪いほどに時間通りに来るのよ。そういう風にできてるの。それに辺りが異様に静かだったわ。」と彼女は言った。

 彼女は異様な空気を強く感じていた。しかし友人にはそのことを話さずにいた。その友人は小学生ながら現実的な性格であったし変なことを言って怪訝に思われるのも嫌だった。
長い間空気が再び動くことはなかった。話し声がやたらと響くように感じられた。
 なにかおかしくないかな、と友人は言った。友人も同じように感じていたのだ。そうして彼女たちは自分の部屋がある団地まで走った。そこはいつものように人が行き交い車が走っていた。彼女たちはしばらく立ち尽くしていたが、とりあえずお互いの家に戻ろうということになった。
 彼女は数日の間その場所に近づくことはなかった。しかしずっと顔を出さないわけにもいかず、意を決して彼女はその場所に向かった。そこは以前のようににぎやかでバスは十分おきに来ていた。

「どう思う? 私たちだけ違う世界に紛れ込んじゃったのかしら」と彼女は言った。
「それか本当にしばらく時間が止まっていたのかもしれない」と僕は言った。僕らのグラスはとうに空になっていた。
「昔からおかしな所だったのよ。殺人とかの騒動もあったみたいだし」
「とにかく無事でよかった」
「そうね。あなたにもこうして話すことができたからね」と彼女は言った。
 
 結局僕たちは寝ることもなく別れた。なんとなくそれが好ましい行動のように思えなかったからだ。そのまま夕食は終わり皆それぞれの場所へ帰っていった。まだほぼすべての人間が明確に帰る場所を持ち合わせていた。
再会したのは半年前で、僕が三十一になる数日前だった。東京のあるバーでスコッチを飲んでいたとき、彼女が入って来た。すぐには彼女と分からなかった。彼女が僕に気づき隣は空いているか、と訊ねた。僕がうなずくと彼女は右隣の席に座った。それからいろいろな話をした。彼女は結婚していて、子供がいること。大学を卒業してからずっと東京に住み続けていることなどを話してくれた。そうしていくうちに彼女の美しさが失われていることに気が付いた。正確には、少なくとも二十歳までは保たれていた強烈な美しさのことだ。相変わらず美人ではあったし心惹かれる部分は多く持っていた。しかし美しさの部類が決定的に異なっていた。
 その時僕は彼女の話を思い出した。あの経験が彼女の美しさや雰囲気を作り出していたのだと直感的に感じた。理屈抜きであの頃の彼女は特別だったのだ。そして僕は彼女が住んでいた住宅地に思いを馳せた。不思議で静謐なあの住宅地に。

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