人生のバイブルはすぐ近くに

黄色と紫、ピンク、水色のキャンパスノートが4冊。


これらは私の部屋の棚に保管してある、不定期に更新されてきた日記帳だ。少し奥に手を伸ばせば手のひらサイズのメモ帳が一冊ある。

「で」と「れ」の発音とひらがなが一致しない中、拙い字で間違えても消せもしないボールペンで初めて1日を振り返ったのが5歳の頃だった。

近所のコンビニで初めて卵を買いに行った日。セキセイインコを飼った日。ある日は虹を1日でたくさん見た日。そして少し時が経った13歳の少女のページにはどうやら恋と友達関係、家族について悩んでいる。

紛れもなく全て私の日常ではあるが、最後の句点の数行先にはわざわざノートの下線を無視して、2行にまたがってまでこんな言葉が書いてあった。

「神様、見守っていてください」

とある日から一日の一本締めかのように、ページをめくってみるとまたその言葉が出現する。そんな日記が当時の私のブームだったのだろう。


表紙に「日記帳」とすら書かない訳は、誰にもこのノートの存在を知られないようにするためとしてきたが、もしこんなに使い古した題名のないノートが誰かの手に取られてしまったら反対に興味をそそられる物体となっていることに今更ながら気が付いた。

今まで私以外の誰かに見られてしまったことは無いと信じたいが、もし仮に見てしまった人がいたら。それはその事実を私には言わなかった優しさであり、そのおかげで私の自尊心が保たれているのかもしれない。もしくは見てはいけないものを見てしまったと悟った上で私と今日まで過ごしているかもしれない。


それほどノートには正直に感じたことを記している。もし急に人生が閉ざされて誰かが私の遺品整理をしている最中にノートを開いてしまったら、私はこの世に未練を残しながら成仏できない霊となってしまうかもしれない。となると真っ先にノートを今のうちに処分した方がいいのだろう。なのにずっと私の部屋から無くならないのは、決して自分の命がいつ絶えるのかが分かっているわけでもなく、永久に自分の命が存在し続けるとかそんな自信があるわけでは全くなく、もうすでにノートと自分が一緒に生きているような、まるで過去の自分がパートナーになりつつあるからである。


不思議なことに、日記を書いていない期間が2年空いていた時期がある。何も記していない期間を振り返ると私が人生で一番沈んでいた時期と重なっている。恐らく書けないときはノートにまで正直に記しもせず、言葉が浮かぶ思考になっていなかったのだろう。「苦しい」や「助けて」も無く、確かに感情に名前を付けることもできないそんな状態だったことだけは記憶にある。書くことができなかったその空白が精一杯の私の叫びになっているようだ。


ふと日記の口調は独り言のようで誰かに話しているようにみえる。記す間は未来の自分にすがりつき、一方で未来の自分は過去の自分に救われているからなのかもしれない。

そんなただの行動記録から始まった文字の羅列のキャンパスノートは、いつしか自分を頼り、時に慰め、そして神へのすがりの手段として自分の人生のバイブルという意味で存在を漂わせてしまっていた。


不定期に更新された日記はあなたの棚にもありますか。今夜そっと掘り起こしてみると成長したあなたが分かるはず。もしあの時あの道を選んでいたら...そう思ってしまっても、きっとあの道を選んだあなたもこの道を選んだあなたも同じく悩んでちゃんと生きています。私は元気ですとページに記してみるとあの道とこの道が実は繋がっている。



なんてそれは神様だけが知っているんでしょうか。

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