ロノミーの湖水(十九)
「それまでも、具合が悪そうだったんだ。でも、ばあちゃんは我慢して……。ねえ、兄ちゃん、ばあちゃんって元々何か病気があった?」
「いや、ないよ」
ニルも、メルも、動揺していた。「ニル君、どうしたの?」と、ニルの強張った表情を見たルヴォワが尋ねた。
「家にいるおばあちゃんが、倒れたらしいんです……! 病気なんて持ってなかったのに……」
ニルは深刻な表情で眉間に皺をよせた。
「それってもしかして……。前にナリンさんに聞いたんだけど、アイムアの森の呪いが、ロフォンの鏡を伝わって、ニル君のおばあちゃんに作用したんじゃないかな」
「どういうことですか?」
真剣な眼差しでニルは尋ねた。
「ロフォンの鏡みたいに、遠くにいる人どうしが話したりする魔術は、通信系の魔術って呼ばれてるらしいんだけど、そういう魔術って、中には魔術的な力や呪いの力まで伝達するものがあるって、ナリンさんが言ってたの。ロフォンの鏡もそうなのかもしれないわ」
「一体、どうすれば……?」
「ナリンさんはこうも言ってたわ。通信系の魔術が伝達した魔術や呪いの力の作用する範囲は、大抵そんなに広くないって。どんなに広くても、普通のお家の寝室一部屋くらいだそうよ」
「わかりました! ありがとう、ルヴォワさん!」
元気よく、ルヴォワにそう告げたら、ニルは、メルに話しかけるために、左耳を手で押さえた。
「メル、ロフォンの鏡からばあちゃんを離すんだ。ロフォンの鏡が呪いの力を運んでるらしいけど、範囲はそんなに広くないんだ」
「わかったよ、兄ちゃん。ちょっと僕には重いけど、なんとかばあちゃんを寝室まで連れて行くよ!」
「そうだな。家の中にロフォンの鏡を持って行ったら母さんや父さんが危ないし、庭だと、天気が崩れた時に良くない。頼んだよ、メル」そう言ってニルは、ひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます、ルヴォワさん。ルヴォワさんがいなければ、どうすればいいか分からなかった……」
「いいのよ」
ルヴォワは、運転をしながら、そう言って微笑んだ。
「年齢が高いほど、森の呪いから強い影響を受けるの。そういう統計があるわ。おばあちゃんと一緒にいるのは弟くんだっけ。弟くんが平気なのはそのせいね」
ここで、ニルの頭に疑問が浮かび上がった。
「あの、ルヴォワさんは平気なんですか? 十八歳ですよね?」
「私は大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
ルヴォワは笑顔でそう答えた。
「そうですか。それなら良かった」
ニルもまた、笑顔でそう言った。
——ディーロの空は晴れている。時刻は午後三時を少し過ぎていた。ニルが乗る、プリファと呼ばれる乗り物は、変わらぬ調子で、道の凹凸に車体を揺らされながら、走行を続けている。
ニルは、徐々に森に近づいてゆく。ニルの心臓は、淡々としたリズムを、強かに刻んでいた。それは、森に足を踏み入れることへの恐怖と覚悟が丁度良く混成されたかのような鼓動だった。
ニルの左前方に、林に囲まれた池が見える。もし、アイムアの森という危険な森の中にある湖の水なんかじゃなく、こんな池の水で良かったのなら、どんなに楽だろう——そんな事をつい夢想するニルだが、その考えは、たちまち煙のように消えてなくなった。池の水が反射させる陽光を少し眩しいとニルが感じた時、不意にプリファは停車した。
「どうしたんですか? ルヴォワさん」
ルヴォワは何も答えぬまま、俯いている。そして、プリファの扉を開けたら、そのまま外の地面に向かって鈍いうめき声を発しながら嘔吐した。
「大丈夫ですか、ルヴォワさん!」
驚いたニルは、慌ててルヴォワに声をかけた。
「……うん、平気よ」
息を切らしながら、振り返ってルヴォワはそう答えた。唇の周りには、彼女の胃液が付着していた。
「呪いですね? どうして今まで無理してたんですか! 僕なら、ここからでも歩いて行けるのに……!」
「違うの、ニル君」
付着した胃液を手の甲で拭って、ルヴォワはそう言った。ルヴォワは続けた。
「呪いの影響は生態系にも及んでる。それは、ニル君も知ってるでしょう? この草原の一部には今、猛毒を持った昆虫が生息してるの。だから、あなたを歩かせるわけにはいかない。市長たちは、私に解毒剤をたっぷり持たせたわ。あなたに渡すために。でも、そんなのだめ。万が一のことがあったら取り返しがつかないじゃない」
「薬があるなら、それを使いますよ、ルヴォワさん!」
ルヴォワは返答せず、無言で再びプリファを発進させた。数秒後、またもやルヴォワを吐き気が襲い、今度は運転したまま胃の中身を吐き出した。
「ルヴォワさん、やめてください!」
「嫌よ」
そう言うルヴォワの顎には吐瀉物が垂れ、握るハンドルにもそれが飛び散っている。よく見ると、それらには薄く血が混じっている。彼女の目は、前だけを見ている。鋭い目つきで、正面のみを睨んでいる。
「教えてあげようか? 女の子ってね、好きな人のためなら何でもできるんだよ」
「ルヴォワさん……」
ニルは、彼女の名前を呼んだ後、それ以上何も言えなかった。何も言葉が出てこなかった。時計の秒針が二周か三周回るほどの時間が経ち、ようやくルヴォワは速度を緩め、プリファを停車させた。
「もう、ここまで来れば大丈夫。あとは、ごめんね、歩いて行ってくれるかな……?」
ルヴォワの、吐瀉物の付いた顎は震えていた。顔の肌は少し青白い。
「もちろんです、ルヴォワさん……。ありがとう……」
言い終えた後、ニルは、ルヴォワのその吐瀉物の付着した唇に口付けをした。
驚いたルヴォワは、目を閉じることが出来ずにむしろ見開いた。そうして、じんわりと、涙を浮かべたら、それが溢れないように、目蓋を閉じた。
「好きな人のためなら何でもできるって……。ルヴォワさん、どうしてそこまで僕のことが好きなんですか? 僕なんかのために、ここまで……!」
「言ったでしょう? 男は、優しさと勇気だって。ニル君は、私の、タイプなの。それも、ど真ん中。……好きでもない女に、それもこんな汚い唇にキスしてくれて、ありがとう。私へのご褒美だね。ごめんね。初めてのキスが、ナリンさんじゃなくて、私なんかで」
「……今は、僕は、本当に好きな人が誰なのか、わからなくなりました」
それを聞いた途端、ルヴォワは満面の笑みを浮かべた。
「うふふ、そっかぁ! ニル君、誰が好きなのかわかんなくなっちゃったかぁ! あは、ここまで来た甲斐があったなぁ……」
ルヴォワは、人差し指で両目を交互に拭った。
「急に元気が湧いてきたよ、ニル君。私はここから一人で帰れるから、心配しないでね」
そう言うルヴォワの顔は、依然として青白く、顎は未だに震えていた。
「気をつけて帰ってください、ルヴォワさん」
「わかったよ、ニル君。君も、絶対生きて森を出てきてね。そして……また会おうね」
「はい、必ず」
そう言って、ニルは、速やかに降車した。その気遣いに報いるように、ルヴォワもまた、すぐに引き返し元の道を辿った。
あっという間に、ニルは草原の中、ぽつんと、たったの一人ぼっちになった。
ニルはしゃがんで、リュックサックの中から地図と方位磁針を取り出した。それらを用い確認すると、ここからほぼ北北西の方角に向かえば、ブロハニ一族が作った、ロノミー湖へと続く一本道の入り口に入ることができると判った。
ニルが歩く草原に道は形成されていない。地図と方位磁針を手に、ニルは草原の短い草を一歩ずつ踏みしめ、歩んだ。ニルは、自分がどこにでも行けると感じた。それは、紛れもなく、先ほどルヴォワから与えられた力だった。
「兄ちゃん、ばあちゃんを、一階の居間まで運んだよ。今は話もできるし、ソファでお茶を飲んで休んでるよ」
小石に、メルの声が届いた。
「そうか、良かった」
歩きながら、ニルはそう答えた。
「母さんは? まだ寝てるかい?」
「部屋に入って確かめたわけじゃないけど、まだ寝てると思う。少なくともさっきは、降りてきてなかったよ」
「わかった。桶の水に映ってると思うけど、あの森がアイムアの森だ。動植物のことで知ってることがあれば、教えてほしい」
「任せて」
弟のその言葉を聞いて、ニルはまた一つ力を得た。ふと、ニルは後ろを振り返ってみた。ルヴォワの乗っている、プリファと呼ばれる乗り物は、遮蔽物のない草原の遥か遠くに、粒のように小さく見えた。ルヴォワのことを考えると、同時にナリンのことも頭に浮かんだ。そうして、次第にわけがわからなくなった。ゆえに、ニルは、そういうことを考えるのをやめた——。
——程なくして、いつの間にか、随分と、木の群れはニルの近くにそびえ立っていた。遠くから見ると気づかなかったが、木々は、ニルのよく見る木よりも背が高かった。
「やけに高い木ばっかだな、メル」
そう言うとメルは、
「見たところこれはフェンっていう、ティブ島ならどこにでも生えてる木だけど、普通のフェンの木より樹高がずっと高いね」
「呪いのせいかな……」
「呪い? さっきも気になったけど、呪いって、どんな呪いなの?」
「ああ、ちゃんと話してなかったか。この森は呪われてるらしいんだ。そのせいで生態系が狂ったり、人の健康を害してるらしい」
「そっか。生態系の崩れは呪いの力が原因だったんだ。兄ちゃん、僕も、この世の全ての動植物を知ってるわけじゃないけど、兄ちゃんの目で見たもので、要注意のものがあれば教えるし、兄ちゃんも、何か気になったら、訊いてね」
「わかった。……ん?」
歩きながらメルと話すニルの前方の木々の隙間に、気になるものが見えた。
「あれがそうかな……? あそこだけ、草が生えてなくて、道ができてる」
ニルは、遠くから、ザフラの言う、ロノミー湖への一本道と思われる道を発見した。それは、何の変哲もない、細くて、あまり自然にできたようには見えない、森林の中に形作られた小道だった。しかし、その小道は、あくまでも不穏で恐ろしげな印象をニルに与えた。
「いよいよだね、兄ちゃん……」
そんな声をかけられたニルは、まるで弟がすぐ隣にいるような感覚を得た。
「そうだな、メル」
そうとだけ言って、ニルは、アイムアの森に足を踏み入れた。
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