超簡単現代哲学の記号論、言語、コミュニケーション入門

はじめに

 
近代と現代を分ける決定的な違いがあります。

「記号」に対する考え方です。

 西洋哲学は「確実なもの」「正しいもの」を追求する学問です。

 現代哲学より前の西洋哲学では言葉、もっと広くいうと「記号」や「コミュニケーション」について特に深く考えていませんでした。

 しかし現代哲学ではそれ以前の哲学とは違い言葉を重視します。

 現代思想家であり構造主義的精神分析で知られる精神科医のジャック・ラカンは世界を3つの観点から見る考え方を提唱しました。

 現実界、想像界、そして象徴界です。

 象徴界というのは言葉、あるいはもっと一般化すると記号の世界です。

 現代哲学以前の西洋哲学では現実界、想像界のみが研究対象でした。

 これに象徴界を加えたのが現代思想です。

 なぜ現代思想が象徴界を導入したかと言うと、我々が確実に伝えらえるものは記号の配列しかないからです。

 現代哲学の記号論についてわかりやすく説明します。

第1章 記号とは何か①

 私たちは言葉を使います。

言葉を表すのに文字を用います。

 文字は記号の一種です。

 ですから文字を研究するということは記号を研究することでもありますし、記号を勉強する場合文字の研究はよいサンプルになります。

 自然言語を研究する学問を言語学と言います。

 言語学の研究対象には文字や文字列、すなわち記号の研究が含まれます。

 自然言語の他に記号が用いられているものとして挙げられるのが例えば数学です。

 小学校では算数を習いますがこれもやはり記号です。

 中学では方程式や関数、幾何学の証明などより記号的な数学を習います。

高校の数学の諸分野は記号なしでは成り立たず、そしてもし大学で数学を学ぶ機会があれば数学が自然言語を排した数学独自の記号体系で構成できることを学ぶでしょう。

中世には言語学習として古典語、文法、修辞、論理などが重視されました。

この中で論理学が得意な進歩をたどり記号論理学として成就します。

 記号論理学は記号論理学独自の記号規則で成り立ちその中で完結します。

 記号論理学を習得せず自然言語しか習得していない人が論理的に誤謬をきたさないことは事実上不可能です。

 結果として記号論理学を学んでいない人の論説は見る人が見れば論理的に間違いだらけであるのにそれが巷間に気付かれず流通していることがあまりにも多く見られます。

 言葉を研究する学問に言語学があります。

 現代において最も成功し世界を激変させている記号はプログラミング言語でしょう。

 プログラミング言語は様々な言語がありますが、普通はキーボードに刻印されている記号で表現されます。

 しかしどんな記号を使ったどんなプログラミング言語であろうとコンピュータに入力される際には2つの記号に変換されます。

 2つの記号よりなる記号列はどんな高級言語によりかかれたどんなに膨大でどんなに複雑なプログラムも表現する力があるということです。

 記号論と同じではありませんが記号論と重なる部分のある自然言語を見ると記号にもいくつかの種類があることが分かります。

 ざっくりいうと一つはアルファベットの様な表音文字で、もう一つが漢字の様な表意文字です。

 記号の数を減らす方向性があり、最小は2つの記号、多くは数えきれないほどの記号が作られ使われることがあります。

 表音文字は比較的使用する記号の数が少なく、表意文字は使われる記号の数が多いという特徴があります。

 自然言語は話し言葉でも書き言葉でも直列に文字が配列されます。

 記号が直列に配置されることは記号の研究において本質的なことではありませんが、直列に配置される場合だけ考えれば十分でしょう。

第3章 確かなものとしての記号

 哲学は確かなもの、正しいものを追求します。

 伝統的な哲学では確かさや正しさの対象は存在や認識でした。

 存在論や認識論における確かさや正しさの議論においては現代哲学で決着がついています。

 哲学の基本的枠組みを知るにはカントの三部作を見ると良いでしょう。

 カントの三部作は「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」から成り立ちます。

 この中で純粋理性批判は存在論と認識論を扱います。

 現代哲学は純粋理性とは何かについての最終的な解答です。

 カントの三部作の残りの「実践理性批判」と「判断力批判」は人はどう生きるべきか、真善美とは何かについての研究です。

 現代哲学でこれに対応するのはイデオロギーです。

つまり人生をどう生きるか、真善美をどう判断するかは「選択するイデオロギーによる」というものです。

 カントの三部作で取り上げられずに現代思想で取り上げられる確実性の問題として言葉やコミュニケーションの確実性があります。

 カントが問題にしなかったのはこれを重要な問題とは考えていなかったからと考えられます。

 言葉を含めた記号の問題が噴出するのはカントの時代よりだいぶ後で言語学、論理学、数学、歴史学、文献学、書誌学、考古学など様々な領域で言葉と向き合わざると得なくなります。

 この時キーワードは「シニフィエに対するシニフィアンの優位」ということです。

 シニフィアンは表現するもの、シニフィエは表現されたものです。

 表現するものとは具体的には言葉など、表現されるものは言葉で表現される全てのものです。

は英語でいうとsignify、significationなどと同じ語源で「sign」という言葉を基に作られています。

 ジャック・ラカンと言う構造主義者、精神分析家、精神科医が「ボロメオの環」という図式で世界を3つの見方から分類しました。

 世界は現実界、想像界、象徴界の3つの側面から考える事ができるという考え方です。

 簡単にいうと現実界は客観的に捉えられる世界、想像界は精神的に捉えられる内面世界です。

 ここに象徴界が加わるのが現代哲学の決定的な特徴でカントの三部作には含まれていないものです。

 象徴化(symbolize)できるものはざっくりいうと図像化や言語化できて、さらにざっくりいうと記号化が可能です。

 象徴(symbol)とは記号で表される世界と考えてください。

 現代哲学より前の哲学の対象は現実界と想像界だけです。

 つまり昔の哲学者は確かで正しいものがあるとすればそれは現実界と想像界にあると考えていたわけです。

 「シニフィエに対するシニフィアンの優位」という言葉で象徴される現代哲学の言葉を紹介しましたが、それになぞらえて言えば「シニフィエのみが対象でシニフィアンに気付かない」状態が従来型哲学です。

 なぜそういう状態が続いたかと言うと、現実界と想像界の事物は再現性があり、「正確な形で他者と共有可能」と無意識に思い込んでいたからです。

 しかし現代では常識であり容易に誰にでも分かることですが個人の想像や中で現実として表彰されているものを他者に正確に伝えることはできません。

 個人の中においてすら内面で想起される物事を時間に関係なく全く同じ形で再現することはできません。

 何かを正確に残し伝えられるとしたら実はsymbol(象徴)、もっと具体化すると記号列だけです。

 歴史学や文献学を考えてみましょう。

 過去の文字列が残され、その意味は失われたり、改竄されたり、捏造されたり、挿入されることもありますが、残った文字列を基に研究を行います。

 文字列はそれが表す意味の仮物、借物であって意味が本質であり、文字列は二次的なものである、というのが古い時代の歴史学や文献学でした。

 「正しい歴史認識」なるものを唱える人が現在でもいます。

 これは「正しい歴史」があるという認識に立っています。

 しかし現代哲学では「正しい歴史」があるかないか以前に「正しい歴史」という概念がありません。

 現代哲学で「正しい歴史」を使うとすれば「正しい」を定義して前提とした場合だけです。

現代の科学や学問としての歴史学はこの「正しい」の定義を研究します。

 それでも確実な定義を行うことは困難であり、実現できているとは言えません。

 ですから歴史学者にせよ、哲学者にせよ「正しい歴史」という言葉を使う人はいないはずで、いれば偽物の学者でしょう。

 そういう人はソフィストなどと呼ばれいつの時代にもいて、「正しい歴史」なるものをイデオロギーを広める手段や政治的プロパガンダとして僭称します。

 一応注意しておくとここでは「歴史」とは文字列を使って過去を研究する学問として使っており、文字列以外も含めて過去を探求する学問は考古学とします。

 哲学的に時間論を厳密に考えれば過去というものはそもそも存在するかも不明ですし、万人に、あるいは個人の中においてさえ時間的に同じ認識を持続できるという通俗的な考え方には何の根拠もありません。

 もう一つの注意点として改めて強調しておくと、記号列、例えば文字列が、例えば一次文献があったとしてそれに一対一に対応する意味や内容が保証されることはありません。

 つまり「解釈」というものは普通は一様ではありません。

 正確な記号列の意味が取り出せるとすればそれは条件が必要ということになります。

 かくして言葉、言語、記号、サイン(sign)が哲学において新たな研究分野に加わったのが現代哲学において新たな研究分野に加わりました。


第4章 他者とは

 現代哲学の基本的な構成要素に主体性がありますが他者の概念はありません。

現代哲学で「他者」を規定するのはイデオロギーです。

 現代哲学の中核の枠組み外の主体性が選択するイデオロギーの中でです。

 その意味で現代哲学は個人主義的と言えますし、独我的とも言えるかもしれません。

 例として現代哲学以前の西洋哲学の他者やイデオロギーの中の他者論とコミュニケーションを見てみましょう。

現代哲学にとってはイデオロギーの一種に過ぎない現代哲学より前の西洋哲学はイデオロギーの集合で古代哲学や近代哲学の個々の哲学はそれぞれ一つのイデオロギーです。

 他者の存在やコミュニケーションはざっくりいうと殆ど自明なことで問題にしません。

しかし現代哲学では他者の存在自体が自明ではありませんし、他者とコミュニケーションがとれるかどうかも自明ではありません。

他の例として実存主義哲学や現象学というイデオロギーの他者の基底について考えてみましょう

実存(existentia)とは本質存在(essentia)に対する現実存在の意味で、本質的な世界や自分があるかないか、あるとしたらどんなものかという存在の本質を追求しません。

本質存在なるものを問題から外して、現に我々が現に存在している意味も分からず生きている状態を考えます。

これを留保(epoche)ということもあります。

考えても意味のないことは無視するということです。

我々は気が付けば世界の中に意味も分からず投げ入れられ(投企、被投、project)存在しています。

我々が世界として認識されるものの個々の要素や総体を現象(phenomenon)ということがあります。

現に我々の前には色々なものが現れます。

それを現前(present)と言います。

現象学や実存主義哲学の中では現象する現前の1つが「他人」「他者」です。

ここでは他者の存在やコミュニケーションについて考えてこなかった従来型哲学にたいする反省を行っています。

 2つの例を挙げましたが、「他者」という時、自然と自分以外を念頭におきがちですがこれも疑ってかかる必要があります。

現代哲学は主体性を大切にしますが、人間は個人内部においてですら、時や場合や状況によって変わります。

自分の中に他者がいるようなものです。

ですから現代哲学では自己のイデオロギーを明確にする、すなわち選択すること、自分自身に対してメタ認知を持ち自覚を持つことを重視します。

重視してなお自分の中に他者が存在しないことは普通あり得ません。

他者の他者たるゆえんは他者はそれぞれ異なる精神、異なる内面性を持つことです。

違う人間同士がコミュニケーションできるのか、同じ表象を持つことができるのかが問題になります。

昔の人間観や言語観では人間は同じで人間同士は分かりあえてコミュニケーション可能であるというものでした。

現代哲学では人間は全て異なりますし、同じ表象を持つこともありませんし、確実なコミュニケーションを行えることもありません。

正確に同じ現実や同じ想像、そして象徴に対しても全く同じ意味形成をするわけではありません。

第4章 コミュニケーション論

 現代哲学には「確かさ」や「正しさ」という概念がないので、そういう概念を使いたければイデオロギーの内部で規定する必要があると書きました。

 何を「確か」で「正しい」と規定してもそれなりの思想体系、イデオロギーを作ることができるでしょう。

 実際に古代の哲学や近代哲学では「現実」や「創造」、つまりラカンの言う「現実界」や「想像界」の中に確かなものや正しいものを仮定しました。

 現代哲学ではそれに加えて「象徴」を重視するので「象徴界」の中に確かさや正しさを仮定したイデオロギーを構築しました。

 それは「記号」と「記号列」です。

 これは誤解されやすい事ですが、記号や記号列が表すものの確かさや正しさは仮定しません。

 仮定しないどころか、記号や記号列が表すものは確かではなく正しくもないと考えます。

 先に表すことをサイン(sign)=記号という言葉を用いてシニフィアン、表されるものをシニフィエと言うと説明しました。

 この言葉を使うと西洋て通学では古代でも近代でもシニフィエは確実で正しいと考えます。

あるいは現実界と想像界だけを考えて象徴界を考えなかったことからわかるようにシニフィアンとシニフィエの区別をしないのでシニフィアンもシニフィエも確かで正しいものを示し得ると考えます。

 現代哲学ではシニフィアンとシニフィエの区別を明確に行います。

 そして従来型哲学はシニフィエの確かさや正しさを追求していると分析します。

 これは「シニフィアンに対するシニフィエの優位」と言えるかもしれません。

 これに対し現代思想ではシニフィエでなくシニフィアンに確かさや正しさを規定するイデオロギーの可能性を重要視します。

 これを前記したように「シニフィエに対するシニフィアンの優位」と言います。

 我々が言葉を使う時のことを考えてみましょう。

 音声でも文字でも記号と記号列は正確に再現性をもって発することができますし、相手も同じものを受信することができます。

 しかしその言葉によって表される意味については全ての人が違う解釈を行う可能性があります。

 他人同士だけでなく同一人物内においても解釈を迷ったり多重の意味を感じ取ったり時間、場所、状況で違う意味に解釈したりします。

 記号列が正確に伝わるかどうかを問題にするのであればそれはどちらかというと科学や技術の問題になります。

 例えば情報工学や通信工学により記号列の正確性のコントロールができます。

 あるいは認知機能の問題、例えば記憶障害や注意欠陥障害、意識障害や読字障害があれば文字列を間違いなく認識できない可能性があります。

 「言葉の中身が大切であって、言葉自体は重要ではない」と言うような主張を否定するつもりはありません。

 そういう古い考え方に基づくイデオロギーも現在でも十分に役に立ちますし、現に生活で使用しています。

 しかし現代の特徴は記号とそれが表すものに対する価値観の転倒で、記号列を重視することにより現代社会が成り立っています。

 古い価値観を代表する記号感から成り立つ記号術は自然言語ですが、論理学、数学、自然科学、工学、情報や通信などの科学技術や産業は全て現代哲学をベースに成り立っています。

 端的に言えば記号論理学、数学、科学技術の基礎としての物理学、情報や通信の科学技術は全て厳密に定めらた記号列により記述されている上に、一対一対応の厳密は規約(プロトコール)により解釈される仕組みが作られています。

 記号列の優位を認めた上でその解釈方法を厳密な規約を設定し解釈に多様性が出ないように制限したのが現代社会の特徴です。

 理数系の領域のみならず、歴史学や文献学もやはり現代的記号論を基礎に成り立っています。

 ですからきちんとした学者は歴史にせよ、聖書にせよ、仏典にせよ、医学書にせよ何かを正しく確実として絶対化することはありません。

 ありませんと言うより出来ない場合が殆どです。

 あえて確かで正しいものと絶対化するのであればそれを絶対化する、というイデオロギーを作りそれを選択することです。

 この場合でも現代哲学の枠組みから抜けない限りは自分がそういう思考と選択と行動を行っているというメタ認知と自覚は維持する必要があります。

 我々にできる事は何かのイデオロギーが正しいとか確かであることを証明することではなく、根拠はなくてもそのイデオロギーを正しい、あるいは確かであると定義することだけです。

 現代哲学的な理数工学的方法との違いは、解釈の一意性は保証できない点です。

 人により解釈の違いが生じるので集団でまとまることができず組織の分裂が生じます。

 「学問的議論」も困難になりがちです。

ただしそのイデオロギーを正しい、あるいは確かとするのは確かさや正しさの根拠があって行うのではなく、ただその選択する人の嗜好や使命感レベルの問題です。

 そしてそのイデオロギーに従属して思考、行動すると選択すればそのイデオロギーの信者の様にはなれます。

おわりに

 現代の特徴は記号列のマトリックスで作られていることです。

 それ時代にお記号列のマトリックスの中で生きている人はいましたが主に学者でした。

 現代社会では記号のマトリックスが具現化し、ややおこがましい言葉を受肉しウェブサイト、インターネットはおろか、AI、バーチャルリアリティーと進化し、ゲームもテレビもデジタル化し自然言語やアナログを圧倒しています。

 昔の記号列と現代の記号列の違いは現代の記号列が正確に一対一対応するシニフィエを規定しているからです。

 記号列(シニフィアン)の意味(シニフィエ)にぶれがありません。

 ぶれがある場合をバクと言います。

 バクが発生しないように基礎から根本的に検証し土台から積み重ねてユーザーが利用可能なインターフェースを構築するのが現代社会です。

 ですから現代はロゴスと哲学の時代です。

 そのためにはある程度の論理や数理的訓練が必要ですので大学のリベラルアーツ課程ではこの訓練を学問の基礎として必修教科とする必要があるでしょう。
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