ゲームと構造主義
ゲームと構造主義
・現代哲学を理解する入口
ゲームとITは現代哲学と相性がいい。
コンピュータはそもそも計算をたくさんすることを指す。
サインコサイン等の関数の値の計算を天文学や保険計算の必要から19世紀には人をいっぱい雇ってやらせていた。
それを真空管が、その後には半導体の集積回路がやるようになった。
量は大切だ。
高速大量の計算をするとゲームができる。
我々は二進法で加減乗除といった数値演算ができる。
また記号論理学で論理演算もできる。
数値演算というのはいわゆる計算だ。
計算を拡張させたものが演算となる。
計算にせよ演算にせよ10進法や12進法である必要はない。
2進法で十分だ。
2進法は回路のスイッチのオンオフ、電流を二股でどちらに流すかで表現できる。
電気回路との相性がぴったりだ。
コンピュータの父たち、ライプニッツにせよ、ブールにせよ、チューリングにせよ、ノイマンにせよみな数学者だ。
あとはそれを物理的に可能にするのは物理学者や工学者の仕事になる。
物理学者や工学者はそれをやり遂げた。
民間企業もかかわったが軍事研究の一環だ。
新しいイノベーションは軍事技術から生まれる。
第一次世界大戦で石油自動車や飛行機が生まれ、第二次世界大戦ではコンピュータや核技術が生まれた。
インターネットも軍事技術やセルンのような多国間大規模化学施設のたまものだ。
GAFAのやっているようなことは軽い応用に過ぎず本質的なイノベーションを生み出したわけではない。
GAFAがやらなくても誰かがやったことだ。
・ゲームのキャラクター
VRMMORPG(仮想現実で多くのプレイヤーが参加してオンラインでRPGを行うゲーム)などでは我々はゲームの中のキャラクターとなってプレイする。
そこでは我々はその世界の中での我々のアバターとしてのアバターとしてのキャラクターを作る。
ゲームを進めていくとそのキャラクターはどんどん変化していくがプレイヤーである我々との同一性は変わらない。
我々は複雑な現実を生きる。
VRMMORPGの世界は複雑かもしれないが我々の生きている世界よりははるかに単純な世界だ。
我々の住む世界はもしかしたら有限かもしれないが事実上無限だ。
それに比べてVRMMORPGの世界は確実に有限だ。
コンピュータの世界はバグが原則許されない。
そこで明らかな法則に基づいた世界となる。
我々の住む世界のように科学に原理的に限界のない世界ではない。
原理的に限界と有限であるのがコンピュータソフトウェアの特徴だ。
・認証、アイデンティティ、プロファイリング
ゲームを始める時、再開する時にはIDとパスワードがいる。
だからゲーム内であらゆる属性が同じキャラクターがいて別のプレイヤーがいたとしても我々のキャラクターとは区別できる。
ちなみにIDはアイデンティティやアイデンティフィケーションの略だ。
日本語に訳すと自己同一性ともいう。
IDやパスワードはおいておいていざゲームをするとなると様々な属性を決めたり決まったりすることになる。
キャラクターの容姿や髪形や性別や肌の色、体系、服装などだ。
名前やあだ名をつける場合が多い。
職業なども最初に決めておかないといけないかもしれない。
スキルなどを選んだり確率的に与えられる場合もある。
レベルや経験値はあるが最初は0か1だろう。
キャラクターには能力値がある。
STR、VIT、AGI、DEX、INT、MNDなどだ。
それぞれstrength、vitality、agility、dexterity、intelligence、mindではないかと思う。
初期値は同じかバラツキがあるかもしれない。
敵を倒して経験値を挙げてレベルを上げる。
職業によってはスキルを覚えたり魔法を覚えたりするだろう。
だれかとパーティを組むかもしれない。
転職するかもしれない。
称号がつくかもしれない。
状態異常がつくかもしれない。
フラグを踏むかもしれない。
服装、防具、武器などを選ばないといけない。
分岐点での選択でストーリーが変わるかもしれない。
そういうの全ての積み重ねがそのキャラクターを作る。
最後にどこでセーブしたか、ゲーム中断時のステータスがどうなっていたまで記録される。
ゲーム再開時にはそれらの記録が正確にロードされる。
ゲーム入場時のIDやパスワードを除いてもゲームの中ではそれらの特徴や属性を持った1人の実体となる。
しかしその実体は有限だからプロファイリングで表される。
全てのリストを上げることでそのキャラクターを特定できる。
またはIDやパスワードがなくても認証できる。
・実体とは
かくの如くゲームのキャラクターとは構築されたものだ。
ゲームの主催者や管理者が人為的にプロファイリングリストを書き換えればおかしなことが起こるかもしれない世界だ。
ただそういうことをしなければ我々の現実世界のミニチュアとなる。
ゲームの中といえども事実上無限に近い。
ゲーム廃人はいるかもしれないが廃人が睡眠以外のすべての時間をゲームに捧げてもゲームをプレイしつくすことはまれだ。
そして同じステータスや属性を持った全く同じ状きゅのキャラクターがゲーム内に存在することも事実上ない。
あるとしたらゲームを始めた直後だけだから無視していい。
視覚、聴覚、触覚、さらに進んで味覚や嗅覚もコントロールできるようになるかもしれない。
ゲームと現実の区別がつかなくなることもあるかもしれない。
胡蝶の夢の故事のようだ。
いかに現実に近くてもそれはプロファイルで表されるものに過ぎない。
脱構築できるのだ。
構築も脱構築も自由自在だ。
所詮コードの、プログラムの中だけのことに過ぎない。
有限であることは関係ない。
我々の現実や精神も無限かもしれないがせいぜいたかだか知れた範囲でしか存在できないし事実上、実用上それで十分だ。
・我々の限界
現代哲学は限界を設定します。
ある意味では哲学者の古代ギリシアの自然哲学者ではなく、ロゴスを大切にしたソクラテスに戻っています。
無知の知と言い換えられます。
西洋の、或いは中東も含めて古代、中世、近代、現代は長い人間の限界を探る旅だったのでしょう。
結果としてポスト構造主義に行きつきました。
「語るべきでないことは沈黙するべきである」
完全性の問題です。
知らないことは語るな、と言い換えられます。
知らないことを語らないと不便そうですが知っていることだけでも人間は随分、もしかしたら十分すぎるくらい十分なことがわかってきました。
人間は発見できなくても発明できます。
手元にあるもので作れます。
それもとんでもないものが作れます。
数学をつくり言語を作りVRMMOを作りAIをインターネットやコンピュータを作りました。
多分80歳以上の高齢ドライバーに運転させるよりは我々はAIの自動運転を信じる時代になってきています。
作る、分解する、改良するのが構造主義です。
基本学問の基本はわからないものには起きません。
実在論や実体はわからないものなのでこれを学問の基礎にはおけません。
したがって数学や物理学、論理学、記号論のような基礎科目、教養科目は構造主義が基礎になっています。
自然科学なら化学も生物学も地学も全て物理学の応用なので自然科学の基礎は構造主義になります。
社会科学や人文科学は知りません。
これらも構造主義で起訴が試されているのが現代の特徴です。
竹内洋の『教養主義の没落』が書かれてから20年暗黒の中世を経て、時代が変わって教養主義の時代になりました。
その教養主義すらもAIの発達でまた没落して人間は頭使わず農業や工場労働者をしておけばいい時代になるのかもしれません。
現代哲学を広める会という活動をしています。 現代数学を広める会という活動をしています。 仏教を広める会という活動をしています。 ご拝読ありがとうございます。