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『哀しみのベラドンナ』失われた美術原画復元計画(第4章)影響を受けたと思われる映画について(3)大島渚『忍者武芸帳』


『忍者武芸帳』DVDジャケット

1954年、京都大学を卒業して松竹に入社した大島渚は、1959年早くも監督に昇進、『愛と希望の街(原題「鳩を売る少年」)』でデビューした。以後大島は社会派の問題作を連発、翌1960年『青春残酷物語』『太陽の墓場』をヒットさせて松竹ヌーヴェルヴァーグの騎手と呼ばれた。

1960年、日米安保条約に反対する大学生たちを主人公にしたディスカッション・ドラマ『日本の夜と霧』の内容が松竹幹部の逆鱗に触れ、公開わずか4日間で打ち切られる。大島はこれに抗議して松竹を退社した。同時に、のちに大島の妻となる看板女優の小山明子も松竹を辞め、大島の助監督で脚本家の田村孟も会社を辞めた。そして彼らに加え、脚本家の石堂淑朗、俳優の小松方正、戸浦六宏の6名で創造社を設立する。

創造社はその後大島たちの活動の拠点となるが、発表の場としてはATG(日本アートシアターギルド)があった。ATGは1961年に東和映画の副社長だった川喜多かしこが非商業的な芸術映画を配給する目的で設立した映画会社で、初期は海外のアート映画を配給・上映していたが、三島由紀夫の自主映画『憂国』がヒットしたことをきっかけに、新進気鋭の監督に出資して新作映画を製作・公開するようになった。

特に話題となったのが作家主義を全面に出し、製作費を1000万円に押さえて新作を撮らせる代わりに、企画段階で監督とディスカッションして合意したあとは現場に一切干渉しないというシステムを打ち出したことで、これは日本映画界に絶大なインパクトをもたらした。

製作費1000万円は、現在の貨幣価値だと7000万~1億だろうか。劇場公開作としては決して潤沢な額ではないが、映画が作れない予算ではない。それ以上に「内容に干渉しない」点が監督たちを刺激した。以降大島渚は、このATGの1000万円映画を足場として次々に話題作を発表するのである。

『忍者武芸帳』は1967年に大島がATGで製作した「長篇フィルム劇画」である。原作は白土三平の大長篇劇画で、白土の絵をそのまま使っているので普通はアニメーション映画になるのだろうが、製作費1000万円では、当時としても圧倒的に予算が足りない。ましてや大島にはアニメーション監督の経験がなかった。そこで大島は逆転の発想で、白土三平の漫画原稿を映画カメラで接写して役者の声を当てはめ、カメラワークと編集によって見事に2時間半の長篇映画を作ってしまったのである。

本当に才能のある監督は、予算がなければないなりに「工夫」をするものであるが、静止画の漫画原稿をカメラで接写して長篇劇映画を作るなど、大島以外の誰が発想するであろうか。

大島がどこからこの発想を思いついたのか不明だが、前年に草月会館で「世界前衛映画祭」が開かれ、上映作品の中に静止写真だけで構成されたクリス・マルケルの短篇『ラ・ジュテ』があった。この作品は映画雑誌2誌が特集を組むなど大変な話題作になっていたので、間違いなく大島は『ラ・ジュテ』を見て刺激を受けているはずである。

白土三平の『忍者武芸帳・影丸伝』は、1959年から1962年まで描き下ろし形式の貸本漫画として三洋社から全17巻が刊行された時代劇漫画(劇画)である。全17巻は当時としては考えられないほどの大長編で、毎月、連載のように単行本の新刊が貸本屋に並び、当時現れ始めていた大学生の漫画ファンの間で絶大な人気を博した。月1冊ペースで単行本を描き下ろしていたわけで、白土三平がいかにこの作品に全力を注いでいたかが分かる。

そしてその内容が、群雄割拠の戦国時代にあって、どこの大名の支配にも属さない謎の忍者影丸が、農民を指揮して各地で百姓一揆を起こし、その土地を支配する大名を打ち倒すという一種の革命劇であることが、当時の若者の多数を占めていた、マルクス主義に影響された左翼学生たちのバイブルになっていたのである。

とはいえ、白土は政治的なプロパガンダ漫画を描いていたわけではない。主人公の影丸は不死身の忍者である。同時に、切られれば血が出る生身の人間なのである。生身の人間が、なぜ不死身なのか。物語は影丸の「不死の謎」をめぐって展開する。

以上『忍者武芸帳・影丸伝』より。誰の支配にも与しない影丸は、文字通り不死身の忍者であり、首を胴から切り離されても、両手両足を牛馬に括られて五体バラバラにされても死なない。最後に読者は影丸の不死の秘密を知って驚愕することになる。

どんな奇想天外な忍法にも必ず合理的な理由をつけ、作中に図解まで入れて忍法の種明かしをするのが白土忍者漫画の特徴で、読者はそこに推理小説的な納得感を得るのであるが、影丸の不死の解明はなかなかされない。全17巻を読んで最後に秘密が明かされ、読者はあっと驚くと同時に、それが完璧に作品のテーマと結びついていることに感動するのである。

ここまで壮大な展開を見せ、かつ綺麗に完結する長篇作品は稀で、読者は白土三平のストーリーテリングの才能に驚愕する。『忍者武芸帳』はその深いテーマ性とエンターテインメント性で、貸本漫画最大のヒット作になった。

私は中学時代、完結から10年を経て小学館から刊行された復刻版で読んだが、当時の中学生ではちょっと買えない高額本で、店頭で立ち読みを始めたらあまりの面白さに止まらなくなり、そのまま閉店までかかって全17巻を読破した。これを日を変えて数回繰り返したのだから、書店のおばさんも相当に忍耐強かったと思う。

大島渚も『忍者武芸帳』の大ファンで、なんとかしてこの大長篇劇画を映画化したいと願っていたが、そのまま実写映画化したら、あまりのスケールの巨大さに製作費が何億あっても足りなかっただろう。そこで逆転の発想で漫画原稿を映画カメラで「接写」するに至ったのである。その接写も、白土三平のペンを走らせる息使いまで写し撮るような生々しいもので、白土が消し忘れた下書きの鉛筆の跡まで確認することができる。

これまで『哀しみのベラドンナ』に先行する映画作品を3本紹介した。『裁かるるジャンヌ』は内容に共通点が、『ラ・ジュテ』『忍者武芸帳』は「静止画をカメラワークで映画にする」技法に共通点があった。

次回はいよいよビートルズ映画のヒット作で、音楽映画、アートアニメーションとしても傑作である『イエローサブマリン』を紹介することにしたい。この作品は影響を与えたというレベルではない。『哀しみのベラドンナ』を製作する直接の契機となったアニメーション作品なのである。

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