見出し画像

男という「オワコン」~"僕のが強いもん"から自由になろう~

男性からのモラハラ・セクハラに悩むすべての女性たちへ。
そして、何らかのカタチで生きづらさを抱えるすべての男性たちへー。

ジェンダーギャップ指数に代表されるように、日本社会は、もっと言えば、この世界は、「男性が女性を抑圧してしまっている」という前提があり、その基本認識のもとに急速に見直しが進んでいる。したがってもちろん、反省して、改善しなければいけないのは男性の方だ。しかし、なぜ男性から(もっと言えば自分から)男尊女卑的な発想が拭えないのかを客観的に認識できないと、それは単なる「やせ我慢」となり、どこかで歪んだ形で噴出してしまうかもしれない。そして女性の側も、男性を支配的な地位から引きずり下ろすだけでは、その先に「逆差別の世界線」を生み出すだけの不毛な結果に終わりかねない。必要なことは、加害者ー被害者の構図を超えた、このような状況を生み出してしまう構造的な要因の特定と、そこに対する適切なアプローチなのではないだろうか。

とある精神分析医によると、暴力的な感情の奥には必ず「悲しみ」がある。
そうだとするとすべては、モラハラ・セクハラに走ってしまう男性の奥にある「悲しみ」に目を向けることから始まる。現在男性からそのような仕打ちを受けている女性には受け入れがたいことかもしれない。また、男性も自分の奥底をのぞき込むのは正直恥ずかしいし、怖い。しかしそこを乗り越えて、この動画を視聴するところから始めてみたいと思う。

このプレゼンテーションのポイントは、幼少期に触れるコンテンツから「男性のあるべき姿」が刷り込まれてしまっているという問題にある。映画「スターウォーズ」を例に出して触れられているが、多くのコンテンツに「悪党を倒す男、それを静かに待つ女」という図式が巧妙に織り込まれているのである。その結果、男の子の心に刷り込まれるストーリーはこのようになる。

「苦難を乗り越えるために努力して、敵を倒す。そうすると、すてきな女性が自分になびいてくれる。そしてその女性は自分を主張することなく、強い自分に対してあくまでも従順である」

つまり、男の子にとって、女の子は「がんばった自分へのご褒美」として認識される。

このストーリーが、漫画でも、アニメでも、映画でも、絵本でも、繰り返し男の子の心に刷り込まれていく。「〇〇ごっこ」に代表されるように、幼いころは好きな物語の主人公にあこがれ、自分と同一視する心の動きが生まれる。片や両親からは「男の子でしょ!」と叱られながら、簡単に泣いてしまわないように、一人でいろいろなことができるように、しつけられていく。

しかしほとんどの男の子は、少年期の早い段階で、「自分は物語の主人公ではない」ということを日常的に痛感させられるようになる。フィクションの世界では当然であるところの、勉強でも、スポーツでも、みんなを倒して「一番」になる、ということがめったにない。ケンカが一番強いわけでもない。一番ハンサムなわけでもない。勝つことより負けることの方がはるかに多いのだ。物語と現実のギャップの差分をコンプレックスとして、男の子は育っていく。

思春期になると、その図式はさらに強化される。
サッカー部のキャプテンが、クラスのアイドルと付き合っている。
自分の好きな女優が「青年実業家」と結婚する。
やはり「(身体的・経済的な)強さ」が魅力的な女性を惹きつけるための一番のファクターだと、それを証明する事実が次々と追いかけてくる。そして、ティーンエイジャー以降は女性を求める性的な欲求が急激に高まっていく。正直に告白すると、受験勉強を頑張るのも、部活を頑張るのも、つまるところは、その先にステキな女の子と出会い、結ばれる近未来を夢見ているからに他ならない。男の人生のほとんどは、物語と現実の自分をギャップをどうにかして埋めて、自分を納得させるための「あがきの軌跡」に過ぎないと思うことすらある。

大人になって「あがきの軌跡」の末に求めていくものは何か。
それは、「自分だけの小さな城」である。
そして、その情熱を振り向ける先は多くの場合「仕事」である。
「小さな城」というのは「ここならば自分は勝てる」と実感できる場所のことである。

仕事でのささやかな成功のために、ここならば自分が勝てる場所の発見のために、そうして男としての自分に落とし前をつけるために、日々「小さな城」を作り続ける。その城が崩れることが一番の屈辱であり、それが立派に大空に向かってそびえたっていると感じる瞬間を夢見ながら、日々「あがいている」。それはたとえ政治家でも、経営者でも、スポーツ選手でも、サラリーマンでも、八百屋のおじさんでも、そのメンタリティにほとんど変わりはないだろう。

その小さな城をつくりあげる過程で、繰り返し唱えている言葉がある。
それは「僕のが強いもん」である。男の行動原理は、つまるところこの1点に尽きると言っても過言ではないだろう。冒頭に述べた通り「苦難を乗り越えて敵を倒して、夢を叶える」が男に刷り込まれたストーリーだ。仕事上の競合他社に対して、同僚に対して、理不尽な上司に対して、自分の方が「強い」ことを証明し続けることで自分の城を築こうとするのである。どんなにいかついマッチョな男性でも、社長さんでも、将来有望な若手社員でも、明日を夢見るミュージシャンのタマゴでも、みんな要は「僕のが強いもん」を立証したいだけなのである。女性は、ここに着眼したほうがいいと思う。

モラハラ・セクハラとの関係を述べていきたい。
つまり、物語と現実のギャップを必死で埋めるために「自分の城」をつくろうとあがき「僕のが強いもん」と叫び続ける男性にとって、その先にある報酬が「ご褒美としての女性」である。そしてその女性は自分だけを見ていて、かつコンプレックスを刺激することなく、従順でなければならない。

「苦労して今の地位を築いたのだから女を思い通りにできて当然だ」
「自分だけの小さな城において、女はかくあるべし」

妻にモラハラをする夫、部下や取引先の女性ににセクハラをする上司は、どこかでそう思っているのではないだろうか。それは女性に相手にされなかった前半生の反動であることも多いだろう。先ほど、暴力的な感情の奥には必ず「悲しみ」がある、と述べた。その悲しみの正体は、「自分は物語の主人公ではなかった」というトラウマであり、「ささやかな自分だけの小さな城すら思いのままにならない」という屈辱なのである。その悲しみを癒すための、身勝手な逸脱行動が、モラハラ・セクハラなのである。

つまり、この物語からの解放こそが、ジェンダーギャップを解消していくためには欠かせないプロセスとなる。再掲する。

「苦難を乗り越えるために努力して、敵を倒す。そうすると、すてきな女性が自分になびいてくれる。そしてその女性は自分を主張することなく、強い自分に対してあくまでも従順である」

男性がこの物語から解放されるためには、女性も男性に「強さ」を求める心を手放さなくてはならない。そのことで男性は、敵を倒す強さでひきつけることではなく(コントロールするコミュニケーション)、目の前の相手が求めることへの共感によって絆を創ること(フュージョンするコミュニケーション)を、初めて学ぶことができる。私たちは、旧来型の男女の図式を乗り越える「新たな物語」を、コンテンツ、エンターテイメント、ファッション、アート、etc、さまざまな分野で紡ぎ、それらで社会全体を覆いつくす必要があるのだ。

また、この記事のタイトルが「男というオワコン」であるのも、男が作り上げてきて、男のメンタリティで動いているこの社会がオワコンに近づいていると実感するからである。政治家も、学者も、ビジネスマンも、まだまだ男性がマジョリティだ。彼らがあたかも真実のように語る「競争原理」や「目標達成」は、つまるところ「男の理屈」でしかないのではないだろうか。ほんのちょっとした「思いやり」や「共感」の心を使うことで解消できる問題が、世界にも、身の回りにも、あまりにも山積みではないだろうか。それを、もっともらしく競争や切り捨ての論理で、大事なところでは「保身」のためにひよったりしながら、発展へのさまたげになっているのが、それぞれの男たちに巣食う「僕のが強いもん」という感情を守りたい気持ちである。

すべての男性の中にある「僕のが強いもん」からの解放。それができたときに、女性も変わるし、世界も変わる。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?