見出し画像

29歳、難病患者、人生を愛している話

ある日突然難病患者になる

最初に言っておく。
痛々しい自分語りになる。
じっくり推敲する自信もない。
恥ずかしいけれど、あわよくば誰かの助けになればいいし、ならなくてもまあいいか。

僕は病人だ。
通常時はフルタイムで会社員をしている病人である。
会社員をしつつ、自分の病気達の世話をすることはそれなりに骨が折れる。
病人をしつつ会社員をすることもまた骨が折れる。

実のところ、この文章を書き始めたのは先日主治医の1人に手術を勧められたからだ。
手術など受けずに済むならその方がいいのである。

2年半前、国の指定難病である潰瘍性大腸炎(UC)との診断を受けた。
この「難病」という言葉なかなか曲者で、自分が当事者になるまで僕はイマイチ意味がわからず、なんとなくかつてテレビで見た「筋ジストロフィー」の患者の方の映像が浮かぶ程度だった。
ところが同じ難病でも僕は寝たきりではないし、健常者と同じ条件で就労しているから、難病にも難病患者にも色々あるのである。

厚労省によると難病対策の対象とする疾病は次のとおりである。

(1) 原因不明、治療方法未確立であり、かつ、後遺症を残すおそれが少なくない疾病(例: ベーチェット病、重症筋無力症、全身性エリテマトーデス)
(2) 経過が慢性にわたり、単に経済的な問題のみならず介護等に著しく人手を要するために 家族の負担が重く、また精神的にも負担の大きい疾病(例:小児がん、小児慢性腎炎、ネ フローゼ、小児ぜんそく、進行性筋ジストロフィー、腎不全(人工透析対象者)、小児異常 行動、重症心身障害児)

https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001qlfz-att/2r9852000001qlkb.pdf

とてもざっくりいうと、「原因がわからず根本的な治療法がない(完治しない)病気」と「慢性の病気で、継続して相当の支援が必要な病気」ということかと思う。

僕が診断されたUCという病気は、医療が進化した今では「直接死に至るような病気ではない」ことが多い。ところがもちろん重篤な患者もたくさんいるし、根本的な治療法がないから一度落ち着いてもかなりの確率で再燃するため、簡単に「怖い病気ではない」と割り切れるものでもない。

さらに僕の場合、その診断に関わる検査の過程で腹部の別の臓器にも異常があることが分かり、手術を受けることになった。これが2年近く前である。
こちらもその臓器がある限り根治が難しい疾患のため、継続した治療が必要であるが、UCとの兼ね合いで治療が難航し、晴れてこの2年間で2度目の手術を受けることになってしまった。

なんの問題も苦労もなく生きている人など誰もいないだろうとは思いつつも、神さま僕はまだ平均寿命の半分も生きていないのに、少し試練が多すぎやしませんかと思ってしまうことも正直ある。

「子どもが欲しい」ことに無理やり向き合わされる気持ちがする

それぞれの年頃で特徴的な悩みはあるだろうが、僕達の年齢では「結婚するのか」「子を持つ親になるのか」を考えることが増える。
女性に比べるともう少し年齢を重ねても生殖機能が大きく変わらない「男体持ち」の人たちは「焦り」の感覚は小さいかもしれないが、それでも自分の人生設計の中で「子を持つか」「どのタイミングで」「どんな方法で」というのは多くの人にとって重要なことだろう。
もちろん「子を持たない」可能性だって大いにある。

現在シングルの人なら将来パートナーを持つかどうかもわからないし、自分やパートナーが子を持ちたくないと思うかもしれないし、どんなに願っても生物学的な子孫を持てない場合もある。
僕みたいに度重なる健康問題で、思い描いていた向こう数年間の計画が全て狂うこともあるし、人生思った通りになることはなかなか無い。

なかなか無い中で、「自分が何を望むのか」は非常に大切な道しるべになるとも感じる。
そして自分の人生で何か壁にぶつかり、願いが叶わない可能性を突きつけられて初めて、いかに自分がそれを望んでいたかを思い知る事もある。
今ある選択肢の中で何かを選ぶ時、自分にとって大切なのは一体何なのか。
自分自身と対話を繰り返す毎日だ。

僕にはパートナーがいるが、結婚はしていないし一緒に暮らしてもいない。
相手は国外にいるので会うのは多くて年に2回。
僕達はなるべく早く子どもを持ちたいということについては合意しているけれど、病気次第では難しい道のりかもしれないということになってきた。
そもそも僕達は共に暮らしてさえいないので、こんなのはただの憧れでしかなのかもしれないと思う時もある。

僕達が出会ったのは4年ほど前、友人の手伝いに駆り出されてたまたま一度会った人と、これからも一緒にいたいなと思うようになり、それが「たまたま子どもができる可能性のある性の組み合わせ」だったのだから幸運である。

僕はいつかは親になりたいと思っていたから、自分が一生一緒にいたいと思う相手が異性だったのはとてもラッキーなことだと思ったが、
その時は自分が病気になるとは思わなかったし、数年後一緒に暮らせるようになったら考えよう、と思っていた。

当時自分が選んできたことを後悔するわけではない。その時その時で、最善と思う道を選んできた。
だがそれでも、こうなるとわかっていたら違う道もあったろうと思わずにはいられないし、それくらい僕にとって、「子を持てるかどうか」は重要なことなのだなあと気付かされもする。

知って初めて知る

自分の子の親になりたいという気持ちと裏腹に、僕はなぜだかずっと前から、「もし将来生物学的な子が生まれなかったら、養子をとろうかな」と思うことがあった。
20歳そこそこでこんなことを考える人はきっと少ないだろうと思う。
何故こんなことを思うようになったのか定かではないが、自分が子を持てるような歳で子育てできるキャリアを構築できていない可能性や、一生一緒にいたいと思えるパートナーになかなか出会えない可能性を感じていたのかもしれない。
どちらにせよ子を持つということは、誰にでも可能なことではないのである。

このことを実感として知っている人は意外と少ないのだろう。
結婚しないことや子を持たないことを特別なことと捉えている人は多いのだなあと感じることは、度々ある。
むしろ、生きていれば大抵の人が自然に結婚し子を持つし、それが理想的だと思っている人が多いのだと思う。

僕が時々思い出しては反省していることを一つ打ち明けよう。
大学生の頃のこと、当時の僕は自分の性に対してやっと前向きに向き合い始めたばかりで、性に対してポジティブな気持ちでいた。
スマートフォンが普及し始めてしばらく経った頃で、つまり手軽に得られる情報量が爆発的に増えていった頃でもあった。

その日は友人と僕、後輩が一人いて、もちろん大学生だから恋愛話になったりもした。
「今まで誰かを性的に好きになったことがない」という後輩に、僕は「誰だっていつかは誰かを好きになるよ」というような無責任なことを言ったのだ。
今考えると大した思い違いで、失礼極まりないことであるが、当時の僕はそれが事実だと思い込んでいた。
今となっては恥ずかしくて申し訳ない気持ちになる。

このことをなぜか僕はとても覚えていて、その後しばらく経ってAセクシャルという言葉を知ってからは度々、世界にはいろんな人がいていろんな可能性があるのに、知らない人にとっては「存在しないこと」「理屈の通らないこと」に見えるのだなあと言うことを、いつも自戒を込めて考える。

この「知らない人にとっては存在しない」というのは、他の色んな不均等の問題にも重なってくるだろう。
僕が「差別をしない人間は一人もいない」と考えるのもこのためだ。
人間の想像力はとんでもなく素晴らしいけれど、なんでも際限なく想像できるわけではないのだ。
僕たちは自分の知っていることに基づいて思考する生き物だから。

「子を持たない」ということについても同じである。
多くの人が結婚し、パートナーとの間に子どもが生まれるが、同時に子どもができない人たちもいる。
また子を持たないことを選択する人たちや、パートナーを持たない人達も。
ただ結婚や出産というあまりに美しい出来事に比べて、少し目に映りにくいだけで。

僕の人生を愛している

僕はこの手術を勧められた時正直動揺していて、自分の頭を整理したくて、この文章を書き始めた。
手術の直前まで少し混乱していたから結局書き終わらず、最後の項を書いている今、近日中の退院が決まったところである。
医師によるとどうやら僕の体はまだ子孫を残す機能を保っているらしい。
ホッとする半面、やはり焦る気持ちは否めない。
僕たちの毎日はあまりに貴重で、短い。
かといって、がむしゃらに駆け抜けるには、あまりに大切だ。

病気をすると、最悪の気分になる事は度々ある。
そもそも自分の行動に起因しない不幸を僕達は恨みがちである。
なぜこんなことに、と思う。
あれができたら、これができたらと。
病気や病人を美化する気持ちなどこれっぽっちもない。
そんなのはくそくらえだ。

だが日々の中に気づきはある。そういう意味では、僕はたくさんのチャンスを与えられているのかもしれない。
僕は20代後半まで健常者として暮らしたから、健常者の世界も少しは知っているつもりだ。
でもその頃僕に見えていた景色と、今見える景色は少し違っている。

世界は知らないことばかりだと思う。それはなんともワクワクすることであるし、自分の隣の人が、自分の知らないどんな経験をしてきたかと思うと、他人のことをもっと知りたいと思う。

病気は不幸だが、病気と付き合い生きている人生が、今の僕を作っている。
なかなか大変だが、不思議に「あの頃に戻りたい、病気のない人生をやり直したい」とは思わない。

少なくとも、前に進んでいると思う。
僕はこの人生を、愛している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?