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蝉と花

 亡骸。
 かつては自分に無関係だと思っていた。
 夏の途中になれば、いたるところに、足を折り畳むようにして、仰向けになって蝉は転がっている。あの姿を見て何も思わなかった時期が懐かしい。今の自分は、あれを見るたびに怖くなる。死を想起してしまうのだ。
 いや、怖いのは亡骸そのものではない。

「おじいちゃんは、おいくつですか?」
 初対面の人に向かって「おじいちゃん」と呼ぶ輩は昔から嫌いだった。それにしても、実にくだらない質問だ。自分は、昔から年齢などに、誇りに思っていなかった。
「知っているだろ? それで今日来たのだろ?」
 のど自慢大会の出場者と同じにするな。年齢を言って、拍手を求めるようなジジイになった覚えはない。
「ええっと。こちらの山家永光さんは、先週7月17日に123歳になられ、世界最高齢記録を更新されました。ご覧の通り、年齢を感じさせない知的なお方です」
 カメラに向かって、若い娘が機転を利かせてそう言った。彼女は、何かを手に入れた人間特有の自信に溢れていた。一年目から、花を満開につけるバラ。そんな印象だ。
「もういいか?」
 引き受けた自分が愚かだった。見返りを期待しての事だったが、何もない。自分で言い出すのも馬鹿らしい。自分の事を動物園の珍獣にしか、この連中は思っていないのだろう。
「ご長寿の秘訣は何でしょうか?」
 台本があるのだろう。この若い娘はインタビューを続けようとしている。
「はぁ?」
 耳が遠いフリをした。
「ご健康の為に何かされていますか?」
「今まで見返りを求めて生きてきた。なのに、何も手に入れた実感がない。金をくれたらこの後の質問に答える」
 生放送中らしい。目の前の連中が慌てふためく。コマーシャルのない放送局だ。金の回収に必死な癖に、払う事にケチな態度にムカついた。
「その他には何かありますか?」
 画用紙張に書かれた意味の分からない文言を、若い娘はそのまま口に出して言った。
「いくら払うつもりだ?」
 話が通じない連中だ。遠くで蝉の鳴き声が聞こえた。時間だけが過ぎて、沈黙の時間が過ぎていった。連中はようやく中継を止めた。

「山家さん。お願いしますよぉ。我々の身にもなって下さいよぉ。めちゃくちゃじゃないですか」
 この現場を指揮している男が、手を合わせるような仕草をしながら、ヘラヘラして、自分の元に駆け寄ってきた。皮肉屋に相応しい態度だった。口調から怒っている事が十分わかった。
「めちゃくちゃ? 帰ってくれ。それで済む話だ。始めに金の話を一切しなかった、あんたらの責任だ」
 この期に及んで、金の話かと呆れられるのも仕方がない。だが、実際に自分は今まで何かを手に入れた実感がないのは確かだ。この年齢になったからこそ、その何かを求めてもいいだろう。自分はそういう話のつもりだ。言ってもわからない話だろうが、自分にとっては大事な事だ。
「あの……山家さん。先ほどは失礼しました。私の言葉遣いが悪かったです。『おじいちゃん』なんてお声がけして申し訳ございませんでした」
 責任者を押しのけるようにして、若い娘が自分の所にやってきた。彼女の顔を見た。女優をしているだけあって、その表情は真に迫るものがあった。
「いい心がけだ。だが、あんたにわかるかな? 自分はまだ花が咲いていない。しかし、あんたは若くして咲いた。その違いで自分は卑屈にもなるんだ」
 金というのは価値の話だ。労働の対価であり、感謝の表現の事だ。自分はそういう事を言いたかったのだ。
「お金でしたら、始めに言ってくださいよぉ。なにも本番中に言わなくていいじゃないですかぁ」
「あんたは黙ってくれ。あんたらが帰る前に、自分はこの娘さんと話がしたい」
 この現場の責任者は後ずさりした。この男にしても、自信を持って仕事をしているのだろう。だが、人を見下している。だから自分は話したくなかった。
「娘さん。あんた、名前は何とおっしゃる?」
「壬生さくやと申します」
「さくやさん。いい名前だ。変な話につき合ってくれないか? あんたは、蝉を見て何か思うか?」
 自分でも、老人特有の思い込みがあると思っている。しかしながら、細かい事を伝えるのは億劫なのだ。
「セミですか? 特別な感情を抱いた事はありません」
 そうだろうな。
「自分は怖いんだ。生きている蝉ではない。亡骸のように転がっているあいつらだ。あの中には、まだ生きているヤツがいる。あの姿と自分が重なるのだ」
「時々いますよね。急に鳴くセミ」
 死という言葉を使わない事に、自分は壬生さくやの気遣いを感じた。
「そう。何もできなかったヤツらにしか見えないんだ。だから、自分と重ねてしまう。自分は何かを目指して生きてこなかった。ただ死なない事だけが取り柄になっていた。何かを成し遂げてこないまま死ぬのを待っている感じがするんだ」
 青臭い。自分でも思う。123歳になってまで、甘い考え方をしている自分が惨めだった。
「そんな。そんな事ないですよ……」
 言わなくてもいい。自分は心の中で謝った。こんな話を聞かされたら、誰だって困るだろう。
「いいんだ。すまなかった。そこのあんたにも謝らなければならないな。めちゃくちゃにしてすまなかった。かといって、自分は償う方法がわからない」
「山家さん。僕、なんというか、グッときましたよ。山家さんでなければ伝えられない事じゃないですか。改めて、取材させてください。今度はお金の話からさせてください。何も成し遂げていないなんてことないですよ。生きている状態こそ、何かを成し遂げているんじゃないですか!」
 突拍子もない責任者の声だった。しかし自分には理解できない事だった。
「私も山家さんのお話をもっと聞きたいです。何となくなんですが、山家さんは伝えるべきだと思います。それが誰かの応援になると思うのです」
 応援か。思えば、誰の事も応援してこなかった。惨めだった。自分が惨めだったから、他人の事など考えた事がなかった。
「蝉が鳴いているうちにまた来ますよ」
 責任者はそう言った。失礼な物言いのように思えたが、まぁいい。必要にされることに自分は慣れていない。何の実感もない。だが、早いうちに、何かを成し遂げて、応援する方にならなければならない。寿命はもうすぐ尽きるだろう。死ぬ前の蝉もきっと、こんな気持ちなのかもしれない。死ぬ前に、せめて一鳴きできれば何かを伝えられるかもしれない。
「あぁ。急いでくれ。来年の蝉の声では遅いからな」
 いつ振りだろうか。自分は笑っていた。笑って、彼等に手を振った。


おわり

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一日延ばしは時の盗人、明日は明日…… あっ、ありがとうございます!