免罪の人
雪と合わさった白い光の中で、モルタルが割れたテラスに、黒い染みが目立っていた。持田十蔵から流れた血である。苦悶した表情、食いしばった歯、色を失くした深い双眸。テラスに続くサロンのガラス戸の前にたたずみながら、持田サーシャは、たたんだ手ぬぐいを口に押しあてて、盗み見るように彼の死体を見やった。それから彼女は空を見上げ、青い空を確認した。他の人々は一団になって、彼女に圧せられたように押し黙っていた。雪にあたった光の照り返しがまぶしいのか、サーシャは、目を細めて黒い髪をかき上げた。
「岩倉はまだ来なくて?」
「ま、まだです」彼女に一番近くにいた中年男が震えながら答えた。それだけ、この場が緊張しているという事だ。
「おかしいわねえ、十二時には着くと言ってたのでしょ?」彼女は、けだるげに髪を片側に寄せて、タバコをくわえた。火をつけて一服してから、長く煙を吐き出す。
「どうしたものかしら」彼女がそうぼやいた時、サロンに一人の男が入ってきた。サーシャはそれを見て、一瞬息をつめた。彼女の心にとある思いが駈けめぐったのか、男をギッと睨んだ。
「……いや、遅れて失礼しました、サーシャさん」と華休軍の濃紺のロングコートを着た岩倉は言った。「いつも乗っている車が故障中でしてね……」
「よく来てくれましたこと」そう言いながらサーシャは苛立ちを隠さず、点けたばかりの煙草を大袈裟に灰皿に押し当てたかと思うと、大儀そうな素振りで岩倉を迎えた。
「そちらにいるのは?」サーシャは、岩倉の後からサロンに入ってきた若者を見て、誰にともなく訊ねた。
「姶良島出身の田中です。今回、サーシャさんのお力になると思いまして」と岩倉が紹介してから「田中です。よろしくお願いします」と若い男は、少し顔を赤らめて、頭を下げた。
「私、持田サーシャです。サーシャと呼んで頂戴」サーシャは鷹揚に言い「あなた、背が高いわねえ」とサーシャは彼を見上げながら感心したように言った。
「それで、十蔵さんは?」と岩倉が訊ねると、サーシャはガラス戸の向こう側のテラスを指差す。
「あぁ、電話で伺っていたのですが、そうですね、ご愁傷様でした」と彼は見慣れた光景だと言いたげな抑揚でそう言った。
「そんな事はいいの。どうなの? これ、どうするの?」
「サーシャさん。どうするも、死んでいるじゃないですか?」
「だから、どうすんのよ。生き返らせなんて言ってないじゃないの。十蔵を殺したのよ、私」と問い詰めるような口調で、岩倉に突っかかる。
「サーシャさん。そこで、この田中ですがね、戦地では中々大胆な事をやってのけるのです」岩倉は的を射ない事をあえて言っているようだ。続きをサーシャが促す前に、彼はこう言うのだ。
「田中が十蔵さんを殺した事にしますよ」
サーシャの顔色は変わらず、むしろ合点したような表情でまた新たな煙草に火を点けた。
「そう。それならいいわ。何も聞かないわ」
「ただね」
「なによ?」
岩倉は勿体ぶってサーシャを見て笑っている。それは、敢えて彼女を苛つかせているようで、岩倉の思惑どおり「なにの条件があるのよ?」とサーシャの口から、トゲトゲした詰問が溢れた。
「まぁまぁ、我々も貴方の醜聞を揉み消すのが煩わしくてね。ところで、サーシャさん姶良島はご存知で?」
「ウィスキーの産地でしょ?」と彼女が言い切ってから田中がコートの下から手銃を取り出すなり、引き金を引いた。
「ヒヤコウ教区ですよ。姶良島はね。どんな悪人も天国に行ける教えでね、免罪ですよ。ヒヤコウの人間がする事は」
田中は微笑みながら手銃をしまい、その場にいた使用人に死体を二つ、彼等が乗ってきたトラックに積み込むように指示をだした。
「これでいいか。本当にヒヤコウは便利だな。ウィスキーの味なんてわかりゃしねぇのによ」
岩倉と田中は何もなかったようにサロンをあとにしたのだった。