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えてして

 靴をひっくり返すと、砂は諦めたように地面に落ちた。
「こんなに入っていた」
 独り言のつもりが、皮肉に聞こえたのではないかと、浩平は少しだけ後悔した。
「なんかごめんね」
 愛華が目じりを下げて、いかにも心苦しそうにそう言った。
「いや。そんなつもりじゃなかった。確かに、この辺りで落としたの?」
「わからない。でも、もういいよ」
 愛華は諦めたように、空を仰いで、砂浜に寝そべった。それから上半身を起こし、人差し指と中指の間にラッキーストライクを挟み、火をつけた。
「わりぃ。俺にも一本ちょうだい」
 タバコをやめていた浩平だったが、愛華が旨そうに吸っているのをみて、久しぶりに吸いたくなった。
「いいよ。気にしないで」
 浩平は手で風を遮って、受け取ったライターに火を灯した。タバコを吸っていたのは、この仕草に憧れていただけかもしれない。
「くらっとするなぁ」
 それでも浩平は、肺にしっかりと煙を入れた。それでという訳ではないが、吐いた煙がはっきり見えて、すっかり空は暗くなっている事に気がついた。波の音が大きくなった気がした。
「ハハッ。折角、禁煙してたのにね」
 タバコのおかげで一区切りできたと浩平は思った。
「本当にもう探さなくていいの?」
 愛華が失くしたのは指輪だった。彼女はそれを身に着けていた訳ではなかった。
「どうせ捨てるつもりだったし、私には必要のないモノだった」
 浩平はこっそりとポケットに手を入れた。そこには、愛華がなくしたトリニティリングがあった。
「なんで捨てるの?」
「けじめだよ。いや。強がりかな」
 律儀に携帯灰皿を取り出して、愛華は吸い殻をそこに入れた。それを見た浩平は、なぜだか胸が痛くなった。
「くだらない事に付き合わせちゃったね。その、色々とごめん」
 浩平は指輪を盗みとった訳ではなかった。かなり前に見つけていながら、愛華に渡すタイミングを逃していた。それに、指輪を見つけたら、この時間が終わってしまいそうで、それが浩平は嫌だった。
「なんで捨てないといけないの?」
「えっ?」
 浩平は馬鹿ではない。捨てる理由なんてわかっていた。
 愛華は再び、ラッキーストライクを一本取り出して、火をつけた。
「不思議だね。こんなにあいつの事、嫌いになるのわかっていたら、はじめから何もない方がよかった」
 裸足になった両足をまっすぐ伸ばして、左手を地面につけて、タバコを吸っている愛華の上半身のシルエットが、浩平の眼に映った。何もかもが、映像のようだと彼は思った。手を伸ばしても決して手に入れる事ができない。それは、距離ではなくて、幻かもしれないと浩平は思った。
「哀しい?」
 言ってから、もしかしたら自分の事かもしれないと浩平は思った。
「そう見える?」
「うん」
 愛華が海に連れていって欲しいと言った。それで、浩平はノコノコと車を出した。
「今から一緒に行こうか?」
「どこに?」
「指輪を返しに行こう。ちゃんと向き合って返した方がいい」
 そう言って、短くなったタバコを口に咥えながら、浩平はポケットから指輪を取り出した。
「あったの?」
「うん」
 浩平は、それ以外に、何も言葉が浮かばなかった。
「いい。あいつの事はもういいよ」
「だったら俺が代わりに返してやるよ」
「優しいね。でも、意気地無しだね」
 愛華は自分が嫌になった。わかっていて、ただ浩平を利用して、挙げ句、嫌な事を言う自分が悪い女だと思った。
「俺じゃ駄目?」
 愛華のシルエットが、浩平の方を向いた。哀しい眼をしていた。
「ありがとう」
 愛華も自分でもわからなかった。なぜ「ありがとう」と言ったのだろうか。浩平の眼がなぜだか怖かった。
 違う。
 浩平の眼そのモノじゃない。浩平の眼に映っている自分が、怖かった。
「いいんだ。ただ、ここで捨てないで。俺は愛華がそれを捨てるのを見たくない」
 そう言って、浩平は指輪を愛華に差し出した。
「うん」
 受け取った指輪は温かった。
「帰ろう。送っていくよ。それと、その。隠していてごめん」
 海から風が吹いた。愛華の長い髪の毛が揺れて、彼女は思わず顔を背けた。浩平は一瞬目を閉じたが、視線は愛華の方を向いていた。やっぱり、はっきり言うべきだと浩平は思った。
「浩平。わがまま言っていい? 一緒に来て。それで、ずっと私と一緒に居て」
 先に口を開いたのは愛華だった。浩平は喉をゴクリと動かした。
「ずっと好きだった。だから、何でもできる。何でも我慢できる」
 暗い砂浜には、遠くの街の光が届いていた。
 浩平は自分の言った台詞を振り返った。そう言ったものの、同じ事をどこかで浩平は言った気がした。自分だって、違う誰かに指輪を贈ったことがあった。
 それで、それが返ってきた事を彼は思い出した。
「なぁ。タバコもう一本ちょうだい」
「はぁ? やめられなくなるよ」
「いや。もういいんだ」
 再び風が二人の間をすり抜けた。火をつける前に、唇が重なった。


おわり
 

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