見出し画像

【アジア横断&中東縦断の旅 2004】 第16話 キルギス

2004年9月20日 旅立ちから、現在 261 日目

パキスタンビザを取得するために、中国の西の都カシュガルから隣国キルギスの首都ビシュケクに向かうことになった。

朝、カシュガル郊外のバスターミナルから乗ったバスは昼過ぎにキルギスとの国境に到着した。
国境は荒野に鉄条網が敷かれ、銃を肩にかけた兵士が警備していて殺伐とした暗い雰囲気があったが、それが気候のせいなのか国家体制のせいなのかはわからなかった。
パスポートに押された入国スタンプに書いてあった「Кыргыз Республикасы」という文字はロシア文化圏で使用されているキリル文字で、英文字と似ている文字がたくさんあるのだが、発音が全く異なるため読めそうで読めなかった。
これはキルギス語で「Kyrgyz Republic(キルギス共和国)」と書いてあるのだと後になって知った。

途中、オシュという町で一泊した。
オシュには今まで通ってきたどの町にも似ていない独特の雰囲気があった。
行き交う人々は金髪白肌の白人もいれば黒髪太眉のアジア人もいて、見事にロシア系と中央アジア系の人種が混在していた。

人種が混在している
オシュの商店


看板にはキリル文字が溢れ、流れている音楽もロシア調のメロディの曲が多かった。
久しぶりにキリスト教(ロシア正教)の教会も見かけた。

ロシア正教会


だがここは中央アジアのイスラム文化圏でもあるので、町中にはモスクもあったり、食堂では羊肉が主食だったりと、人種のみならず文化も混在していた。
当初、この国に来る予定では無かったので、情報を全くチェックしておらず、そもそも国の存在自体あまりよく知らなかったが、右も左もわからなくてどきどきするこの感覚が久しぶりで、旅を始めた頃の新鮮な気持ちを思い出して、ひとりわくわくしながら見知らぬ土地の散策を楽しんだ。

オシュから夜行バスに乗って、翌日の朝、首都ビシュケクに到着した。
郊外のバスターミナルから市バスに乗り換え、ひとまず町の中心部に出て、そこから安宿を探してバックパックを下ろしようやく一息ついた。

ビシュケクの町中には洒落たカフェがたくさんあり、古いメルセデスベンツのトロリーバスがひっきりなしに走っていた。
明るく緑豊かでインフラもしっかり整備されており、この町は想像していた以上に洗練された都会だった。
遠くには雪山が見えたりして、ここが「中央アジアのスイス」と呼ばれているのもわかるような気がした。

町外れの市場


町の中心部に行くと大きな公園があり市民の憩いの場になっていた。
公園の中心の広場には大きなレーニン像があった。
旧ソビエト連邦崩壊とともに独立したいくつかの国では、レーニン像は社会主義国家の象徴でもあったためほとんどが撤去されたというが、ここキルギスにはまだ多くのレーニン像が当時のまま残っていた。

レーニン像


かといってキルギスが今でも社会主義に傾倒しているかといったらそういうわけでもないようで、その辺りがキルギス人のおおらかさをある意味象徴しているのかもしれないと思った。

翌日、この国に来た本来の目的であるパキスタンビザ取得のために、町の中心部にあるパキスタン大使館にビザの申請をしに行った。
手続き自体はスムーズに進んだが受け取りまで中5日間かかるとのことだったので、ゆっくりと町歩きを楽しみながら今までの旅の疲れを癒し、5日後に再び大使館に赴いて、無事にパキスタンビザを再取得することができた。

夜、安宿のベッドの上で横になりながら旅の終わり方を考えていた。

1月に真冬の北京から始めた今回の旅は今まで10数ヵ国を通過して季節は秋になっていた。
あと数ヵ月で日本を出て丸1年が経つ。
この後アジア最西端の国トルコのイスタンブールまで行ってアジア横断を達成した後、更に西に進みヨーロッパに入ってユーラシア大陸最西端のポルトガルを目指すか、それとも中東を南下してアフリカの入口のエジプトまで行くか、まだ旅の終着点は決まっていなかった。
どこまで行ってどんなタイミングでこの旅を終えるべきなのだろう。
その時その場所で何を見て、何を感じ、何を考えるのだろう。

2004年のこの時期、内戦状態のイラクでは日本人の青年が拉致されて殺害されるという痛ましい事件が起きた。
インドネシアではM9.0の大地震が起きて津波で壊滅状態になってしまった島もあった。
中国では国慶節(中国の建国記念日)の大型連休が始まろうとしていた。

私が旅をしている時間に、世界では同時進行で様々なことが絶え間なく起こっていた。
私は今「場所」だけでなく、2004年という「時間」の中をも旅しているのだと思った。


続く
 ↓

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?