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いくつになってもお祝いされたい

もういい歳になってきたので、歳の数が増えることに特段の喜びはないのだけれど、やっぱり誕生日は特別なものに感じる。でもいつからか、その特別感をモノコトで消費することには、てんで興味がなくなってしまった。

若いときは「あの財布が欲しい」「あのお店でディナーしたい」などなど、『誕生日に欲しいもの・したいことリスト』みたいなものを作っていたりもした。非日常がズラリと書かれたリストを、現実のものにしていくウキウキ感。それを得るのが誕生日だとさえ思っていた。

でも、いつからかリストは要らなくなった。誕生日を穏やかな気持ちで迎えられたら、それでいい。十分ありがたい。

そう思えるようになったのは、家族ができてからだ。子どもが小さい頃は、買い物はゆっくりできないし、自分の出かけたいところに行けないことも多々ある。自身の物欲や行動欲に制約を受けているうちに、価値を見出さなくなったのかもしれない。誕生日はそもそも、一年間健やかに過ごせたことをお祝いする日じゃないか。祝ってくれる家族もいる。私は幸せ者だ。

と、思っていたのだが…

毎年、私の誕生日付近になると、「お母さんがほしいものは何?」と聞いてきて、お小遣いからプレゼントをくれる兄。今年は一度も尋ねてこない。

昨年は「こっちにはこないでねー」と、わかりやすくもサプライズで折り紙のプレゼントを製作してくれた弟。今年はその気配がまったくない。

例年、時計が12時を指したら、一番におめでとうと言ってくれる夫。今日は「眠いから先に寝るわ」と言って、とっとと寝てしまった。

おい、みんな。私の誕生日、祝う気あります?

誕生日のリストが復活してしまった。リストに綴るのは、「誕生日を家族に祝ってもらいたい」だなぁ。これまで、なんだかんだ家族に構ってもらって、誕生日を迎えるウキウキ感を願わずとも享受していたことに気づく。

こうもそっぽ向かれると、結構さみしいもんだ。ありがたみを知るって、こういうことか。それにしても、本当にみんな忘れているなんてことないよね。明日、なんにもなかったらどうしよ。いやいや、それはないでしょ。

でも…

ボヤキがとまらない、新しい歳のはじまり。

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