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エッセイ 彼は我が弟子である

大学に入って4年目。
私にもついに後輩らしい後輩ができたと感じつつある。

勝手ながら其奴を弟子と呼ぶことにしよう。

その弟子はなかなかに優秀で、吾輩がLINEアカウントのひとことに「詩人になるか、でなければ何にもなりたくない」と駄々こねて書いていると、すかさず「ヘルマン・ヘッセですよね、先輩」と即答する男である。
さらに「ヘルマン・ヘッセ、俺も読んでいるんですよね」と彼は続ける。

「コイツ、できる」
吾輩のLINEアカウントの「ひとこと」をチェックし、すぐそのメッセージのもととなる作家の作品を読むとは我ながらよく出来た弟子ではないか。(?)

彼はもともと、学生研究室における私の役職の引き継ぎ人であり、その関係で彼と話す機会が多々あった。

しかし、話すとひしひしと感じられる。
彼が放つ形容しがたい「オーラ」のようなものが。

関羽のような凄まじい武力による貫禄でも無ければ、諸葛亮のような知性に満ちた風格でもない。

はっきりいって、得体の知れないオーラというヤツである。「コヤツ、只者ではない」と感じさせるには十分なほど、その弟子には溢れんばかりのオーラがあったのだ。

しかし、懸念として挙げられるのは、「只者ではない」とはじめは恐れ慄いてたのが、後々になると「コヤツは怪しい」と疑心暗鬼を持たれるのではないかということである。

どれだけ、今まで培った功績があろうとも、そのオーラの前では「コヤツのことは理解できない」と認識され、そのあとの交流に発展できない恐れが考えられる。

その弟子が抱くオーラはそのような感じがした。吾輩は危惧した。他者が持たないオーラに我が弟子は悦に入るのではないかと。

吾輩もかつては、そのようなオーラを発し、勝手に悦に入る時期があったのである。

しかし、段々と肥大していった「オーラ」に我は手をこまねくようになり、そのせいで自己分析をフニャフニャと歪曲し、さらに「我は一体何者になりたいのだ」と蠢くという、就活生にあるまじき惨状に陥っている。それが現在の状況である。

吾輩の弟子は有能で、間違えなければまともな人間としてこれからの人生を歩むことができるだろう。ビジネスパークで吠える獅子とならずに済むだろう。しかし、安易に自身の有能さに自惚れことがあった際には、彼の毛は剛毛と化し、体臭は獣臭くなり、とうとう社会復帰ができなくなるまで追い込まれることになるだろう。それだけにはならないでほしい。今度会った時には、彼に忠告するとしよう。

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