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2.まぶしい私たち

 気持ちのいい酔いに全身で浸りながら自動ドアを抜けると、思っていたよりもずっとつめたい外気にあてられた。この酔いはしばらくしないうちに醒めてしまうことを知っている。私につづいて出てきた理子は「さむ!」と元気だった。フレッシュなはずの私たちのリクルートスーツは、立ち並ぶ居酒屋たちの看板に照らされながら、どこか疲れているように見えた。
 昨晩、いつもの就活愚痴大会を理子と二人でやっていた。当初仲のよかった五人のグループで行われていたそれは、季節が移ろうのに合わせてぽつぽつと内定を取り始め、グループだったのがトークに、そしてついには理子との個人チャットへと移動した。とはいえ、そのことについて僻むことも不安を露わにするようなこともなく、今日の面接官がいやらしかったとか、たまたま隣に居合わせたのが超イケメンだったとか、他愛のない話が延々とループされていた。
 昨日もそんな調子で理子が明日の面接会場が遠いと言うので、私もと駅名を言うと、まさかの同じだった。そのまま面接のあとに飲む約束をして、切断した。いつもながらお互い受ける企業名は言わなかった。
 私たちはなんとなく駅の方に向かって歩いていた。理子は明日、朝から別の面接があり、私も昼から二つ控えていた。少し前までは、まだ終電まで余裕だからともう二軒は巡っていたはずだった。なんとなく明日のためにも帰ろうという雰囲気が、大人というか社会人じみていて、それはひどく私を萎えさせていた。それでも隣を歩く理子はいつもどおり楽しそうに見える。とはいえ楽しそうじゃない理子は、多分見たことがない。
 ほとんど駅に近くなった交差点で信号待ちをしているとき、前を眺めるのに飽きて視線をさまよわせていると、左側の歩道に公園のような広場のような、休めそうなところを見つけた。いくつか木が植えてあるが、それらはデザインされた配置でぽつぽつとあり、中央には噴水があった。そのそばにベンチがあることまで見えた。
 信号が青を照射する。周囲の前方に向かう意識がいっせいにまとまりを帯びる。名残惜しさと腹立たしさが衝動となるのが分かった。
「ね、なんか飲み足りなくない?」
 理子は歩きだそうとしていたのをこらえ、私の方を向いた。「あたしもそう思ってた」
 横断歩道を渡るのをやめ、道を戻ってすぐのコンビニに入る。氷結のロング缶を、私がグレープフルーツ、理子がレモンを取り、あたりめとカルパスを分担して買った。先に理子が会計を済ませて私がつづくと、「行こ」と言って公園へと先導してくれた。考えてることはやっぱり同じみたいだ。
 公園はそこまで外灯が多くない割にちゃんと明るかった。わき目を振らずまっすぐ、噴水のベンチを陣取る。隔離された夜につつまれながら鞄を置くと、精神的な重荷まで下ろせた気がした。でも、また背負わなくてはいけない。おそらくショートカットとしてたまに通りがかる人はいたが、ほかにベンチに座っている人は見当たらないので、はばかることなくさっそく二度目の乾杯をする。別にお酒が大好きなわけではなかった。きっとそれは理子もそうで、私たちの日常を限りなく延長したかっただけ。
「なんかいいことないかなー」
 理子が出し抜けに言うから、私は思わず「内定?」と言いそうになるのを抑え、「なにかって?」と訊き返す。
「恋愛的な?」となぜか理子は疑問符をつける。あー、とだけ声を出す。
「あたしも癒やしほしいなあ。毎晩ねぎらわれたい」
「癒やしね……」
「律はいいじゃん、彼氏いるんだし。会ってないの?」
「たまにね。でもあんまそういう話はしないかな。地雷だと思われてるのかも」
 あーとかいやーとか理子が返事に窮しながら缶を傾けるのを見て、私も同じようにする。ビル風がここを通過するので寒く、とくに缶を掴む右手は痛んだ。
 彼氏は、いまごろゲームでもしてるんだろう。お互い就活をしていた頃は共通の話題もあって密に連絡を取り合っていたが、最近じゃ電話はおろか会うこともめっきり減っていた。私が忙しいというのも要因のひとつだろうけど、実際、その程度の関係でしかなかったのかもしれない。それでも――ただ孤独を侵し合う関係だったとしても――ないよりはマシだったように思う。イケメンでなければ毛玉のついたセーターを気にせず着てくるようなひとだけど、それなりにおだやかで楽しい日々だった。
 私も理子も黙っていた。今日の出来事はすっかり居酒屋で話してしまったし、わざわざどこからか話題を引っ張ってくるのも面倒になっていた。お互い疲れているのだろう。背後の噴水から発せられる水音は心地よく場に馴染んでいた。
 手持ち無沙汰で振り返ってみると、反転したかのようにまぶしく、ぐっと目を細めてしまうくらいだった。水が噴水から放たれて落ち、下で受けられて溜まるなかにいくつもの光源が点在していて、光と水の反射は、こちらとあちらにはっきりとした境界があるかのようにきれいだった。その境界があるからこそ美しいと認めることができるのだろう。この感覚は、以前彼氏の家でやらせてもらった再現度の高いゲームをプレイしたときにもあった。決して飛沫が届く距離ではないのに、かなりリアルで――いま目の前にしているそれは現実にちがいないと分かっているのに――肌寒く感じた。理子はぼうっと、つくられた暗さを眺めるでもなく眺めているようだった。
 あちら側に私は属したい。ベンチの背もたれから身を乗り出して、飛沫がかかってもおかしくない噴水の領域に、首から先を入れる。明瞭ではないけれど、私の顔が映った。限りなく細かいしずくに水面が打たれて、揺れている。私の顔も揺れる。そのおぼろさが手伝ってかきらきらして、どうしても目を逸らすことができないでいた。私が水面の私を見ている限りは存在して、見ることをやめれば姿を消す。水面のなかには現在(いま)しかないんだ。光のなかにしか存在しない。
 うらやましい、から次第に憎らしい、へとあっという間に切り替わる。本物の私を見ることはできないけど、疲れきった表情をしているにちがいないから。苦しいことばかりで、その先には厳然と未来がある。それらから逃れることは実質的には許されていなかった。どうしたって未来を見ることを強いられている。でも水面の私には、現在(いま)しかない。
 志望動機に本音をすり寄せていく。私は自分がすこしずつ歪になっていくのがはっきりと分かった。社会に適応できない自分がまざまざと露わになっていく。ため息と涙のようなものをこらえていると、目をつぶってしまいたくなる。でもそうすれば現在(いま)だけの私は消えてしまう。思いきってさらに身を乗り出し、腕をのばして水面にふれてみる。当然つめたくて、当然水面の私に実体なんてなかった。
 つめたさが痛みに変わっても、どうしてか手を引く気にはならなかった。そのままでいることを本物の私が望んでいる。映る像はなぞってもたちまち出現する。そんなことは当然なのに、新鮮味があった。
 ざぶん。
 反射的に振り向くと、理子がすこし離れたところで噴水に両脚を入れている。絶対さむい。それでも理子はゆっくりと落ち着いていく水面を見つめて、それが元通りになると私を見てニッと笑った。八重歯がひかる。缶は左手に掴んだままだった。私も大きな波紋をつくりたい、と思考が理子の行動に感化される。私の現在(いま)を取り返したい。
 私はついにベンチから降りて、指ゆびについた水を払いながら噴水に近づき、思いきり跳ねて飛び込んだ。ざばんと重い音とともに周囲の水が跳ねる。つめたさは足先から一気に侵食してくる。水面が落ち着いてしまう前に片足ずつ大きく踏み鳴らす。水面は絶えず不安定に揺れる。
 最初に水をかけたのは理子の方だった。それは控えめで、でも私のスーツはちゃんと濡れた。
 やったな、と発して私も同じくらいの勢いで返そうとしたが、想定していたよりも大きくすくってしまい、その一撃で理子のスーツはぐっしょりと水浸しになる。理子は怒りも悲観も見せず、あははは、と笑った。
 水をすくってかけ合ったり、じゃばざばと歩き回ったり、転倒したりで、私たちは髪の先までびしょ濡れになった。その連続した瞬間たちは、まぶしくて、確かに私たちの現在(いま)だった。ずっと現在(いま)がつづけばいいのに。そう願わない人間がどこにいる?
 くたびれて、噴水の音よりも息がきれる音が大きくなって動けないでいると、運動による熱は急速に冷却され、濡れたスーツが重く、身体もだるく感じられた。水をかけるのに持っているのが面倒になって離した缶が、ぷかぷかと漂う。おそらく風邪を引いてしまうんだろう。でもどうせスーツも濡れてしまっているから、明日は就活もできないし、もう全部どうでもよかった。ひさびさに彼氏の声が聞きたくなった。水面は、つくられた乱れを収束しつつあった。

今まで一度も頂いたことがありません。それほどのものではないということでしょう。それだけに、パイオニアというのは偉大です。