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つづく

 実家の片付けをしていると、父の若いころの写真が出てきた。人に見せるとハンサムだと言う。生まれたときからこの顔を見ている私にはよくわからない。ただ、いわゆる濃い顔だというのがわかるだけだ。

 私が父親の見た目を気にするような年齢になったころ、父は四十代だった。この年齢になると、若いころのハンサムとそれ以外の男性でしばしば逆転現象が起こる。ハンサムも三十代はなんとかなっても四十代は厳しい。流行もある程度取り入れることのできる理髪店でマメに髪を切り、仕立てのいい服を身に着け、センスのよい小物を持っている男性の方が、手間とお金をかけられない元ハンサムよりずっと素敵に見えるものだ。

 若いころの父を知っている人たちは、父を変わらず男前で女にモテるキャラとして扱ってくれるから、父も自分で自分をそのようにとらえていたようだったが、初対面だったら顔はふつうでもバシッとスーツを決めた高給取りの男性の方がモテるだろうと、思春期の冷静な娘は思うのだった。

 父は小金は持っていたけど壊滅的にセンスがなかった。自営業なのでいつもラフな格好をしていたけど、ラフな格好というのはセンスのなさがますます際立ってしまう。散髪も母にしつこく言われてしぶしぶ行くくらいだったので、少し癖のある髪はいつも長めでぼさぼさだった。

 「お父さんちょっとお洒落したら」と何度か言ったことがある。私の言うことだけは素直に聞いてくれた父は、「そうか?」としばらく考え込む。そしてなぜか突然、髭を伸ばし始めるのである。髭を美しく保つのは実はかなり大変で手間がかかる。散髪すら嫌いな父が鬚を蓄えるとひたすら小汚くなり、母や叔母の猛反対にあって剃る。そういうことを数年おきに繰り返していた。

 

 そんなわけで私は、若いころの父がハンサムで女にモテたというのがちょっと信じられない。お祭りで町内の人に「お父さんはなあ、若いころ地車乗ってて、そら格好よかったんやで」と言われても想像できなかった。もう七十代になっている父と地車のそばを二人で歩き、「あんなん言うてんのほんまなん」と聞いた。父は「せやなあ、ふっと下見たらエエカゲン返事してた女が二人ともおって、屋根降りられへんで困ったことあったなあ」などと、珍しく饒舌に昔話をした。

 その年の祭りで、お婆さんに付き添っている娘さんに声を掛けられた。「この人がお父さんと一緒に歩きたい言うてて……」と言う。私は父のところに走って行って伝えたが、すげなく断られた。「知ってる人やねんやろ、一緒に歩いたらええやん」そう言いながらはっとした。あのお婆さんはかつて地車の下で父を見上げていた女性の一人ではないか。「もう年齢(トシ)やねんから、お母さんに遠慮せんでもええやん、ただ歩くだけやん」、そう食い下がると、父は「そんな不細工なことできるか!」と言って黙ってしまった。

 この話には続きがある。次の年のお祭りで、そのお婆さんは車椅子に乗っていたのである。顔の表情も虚ろだった。何かの病気なのだろうか。年齢も年齢だし、もしかすると先が長くないのだろうか――。娘さんはもう私に声を掛けることはなかった。一緒に歩いてあげればよかったのに。私は胸が締めつけられるような思いだった。

 しかし父には何も言わなかった。決まった相手がいたら他の女性と歩いたりしないというのが、よぼよぼの爺さんになっても父の美学だというのがわかったからだ。たぶん、ハンサムでモテてた若いころからそうだったのだろう。

 ちょっとしみじみしたのであるが、この話にはまだ続きがある。なんと翌年、そのお婆さんは元気に回復して祭り見物に来ていたのである。私を見てちょっと会釈したが、父と接触したかどうかはわからない。その後父は二度の手術を経て亡くなり、そのお婆さんは毎年祭り見物の人の中にいる。同じ地区だから、老人会の旅行などでは母と一緒になったりもするようだ。

 と、ここで終わるのではなくまだまだ続きがある。実家の片付けをしていると、あちこちから母の写真が出てきた。老人会のイベントで撮ってもらった写真を、袋に入ったまま放置しているのだ。

 整理しながらまとめていると、一枚、鋏の入った写真があった。母を含む数人で写った写真から、一人を切り離しているのである。

 栞みたいに細く切り取られた写真の中で微笑んでいるのは、あのお祭りの日のお婆さんだった。鈍感な私はこのとき初めてわかったのである。地車の屋根に乗っている父を見上げていた二人の女性のうち、一人はこのお婆さん、そしてもう一人は母だったのだ。

 父はもう亡くなってしまったけれど、二人の女性の戦いは、老人会編からデイサービス編そして施設編と、まだまだ続きそうである。モテるって難儀やね――、片付けの手を止めて、私は若い日の父の困った顔をしばし想像したのである。

ありがとうございます。