ポテトサラダぐらい

 あのあと築50年のアパートに帰宅した爺、年中出しっぱなしの炬燵の上にスーパーの袋をガサッと置く。袋の隣には小銭が散らばっている。次の年金の振り込みまであと5日。スーパーで惣菜を買いたかったが諦めて特売のカップ麺が今日の昼食だ。

 流しは洗い物で溢れていて、この暑さで饐えた臭いがしている。妻が亡くなって三年、まともな料理を食べたことがない。最初の一年は呆然と過ごした。さまざまな手続きや片付けもあった。夢中で過ごした。一年経って、自分がまともな食事を取っていないのに気づいた。

 特においしいとも思っていなかった妻の料理が恋しかった。とりわけ恋しかったのがポテトサラダだ。自分で作ってみたらどうだろう? 最近は男性向け料理教室などというものがある。たしか老人会でもあったはずだ。爺はずっと避けていた地域の集まりに行ってみようかと思ったが、いまさらと思ってやめた。

 もともと社交的な性格でもなかった爺には、地域の知り合いなどいない。この地域のことは、自宅から仕事のために利用する駅までの道の範囲しか知らなかった。爺はずっとそのように暮らしてきた。

 退職して家にいるようになるといきなりすることがなくなった。自分には趣味というものがないのに気づいた。妻は老人会のイベントに一緒に参加しようなどとさかんに誘ってきたが、鬱陶しいので一度も行かなかった。そのうち妻は自分を誘うのをやめて一人で出かけていった。

 妻は最初のころこそ申し訳なさそうだったが、そのうち楽しんでいるのを隠すことなく出かけるようになった。俺の飯はどうする、爺は出かける用意をしている妻に不機嫌に言うのだった。妻はいつも、ちゃんと用意してありますと冷蔵庫を指差すのだった。

 自分から自宅に籠っているのに、爺は不満だらけで一人の食事を済ませた。ラップを剥がして黙々と食べ終わると洗い物をするのではなくそのままで、テレビを付けっぱなしで寝た。鰯をたっぷりの生姜と一緒に甘辛く炊いたのや、鰤と大根の炊き合わせ、関東煮は前夜から仕込んで味が染みていた。

 いま思うと妻は時間が経っても味が落ちない料理を置いていったのだった。和食が多かったが、唯一よく置いていった洋風のおかずがポテトサラダだった。

 毎朝目が覚めるとまた一日が始まるのにうんざりする。今日も何もすることがない。自分はどうしてこういうつまらない人生を送っているのだろう。

 妻が死んでから生活というものが崩壊してしまった。貧しいながらもすっきりしていたアパートには百円ショップで買った有り合わせのプラスチック製品が溢れている。便利だと思って買った品々が、ただ生活空間を圧迫していて、家にいるとイライラする。そんなとき、爺はスーパーに出かけるのだった。

 爺は自らのささくれだった気持ちをどうすることもできなかった。いまは妻の料理をもう一度食べたい。とりわけ、あのポテトサラダ。惣菜売り場にはポテトサラダが並んでいる。買ったこともあるが、妻の料理とはまったく別物だった。やはり手作りでないとあの味にはならないのだろうか。

 そういえば娘も小さいころ妻のポテトサラダが好きだった。三人で囲む食卓は、今思うと幻のように幸せな光景だ。娘は結婚して家を出てからも、ときどきうちに寄ってはタッパーに入れて妻のポテトサラダを持ち帰っていたっけ。その娘も、妻が死んでからはまったく寄りつかなくなった。

 スーパーにはやけに明るく安っぽい音楽が流れていて、爺は気持ちがますますささくれだっていくのを感じた。妻はポテトサラダを作るとき、玉葱をみじん切りにして、水に晒してたっけ。ラッキョウもみじん切りにしていた。ゆで卵も別に作って。あれは案外手の込んだものだったのだな。

 じゃがいもは熱いうちに皮をむいていて、ときどき火傷しそうだと騒いでいた。妻は明るい女だった。明るすぎて鬱陶しく思うこともあった。熱い熱いと騒ぐ妻に、爺は「なら作るな」と不機嫌に言うだけだった。

 惣菜コーナーで爺はポテトサラダを買おうかどうか迷っていた。妻のあのポテトサラダはもう食べられないのだ。老人会の小旅行に出かけるときに置いていったポテトサラダ、嫁に行った娘がわざわざ持って帰ったポテトサラダ、娘が小さかったころの食卓に並んでいたポテトサラダ。

 好き嫌いの多い娘がこれだけは自分からプラスチックの子供用スプーンでガツガツ食べていたポテトサラダ。それを微笑んで見ていた妻。爺は会社で部長になり、一家を支えているという充実感があった。

 スーパーにいる客はみな、あの家庭の幸せというものをいま味わっているのだろうか。俺は一人だ。俺は孤独だ。ポテトサラダを作った妻はもういない。こういった惣菜は俺のような家族のいない奴が侘しく一人皿にも移さないで食うものだ。ポテトサラダくらい、ポテトサラダくらい、自分で作ったらどうだ。

ありがとうございます。