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うちのかぞく/そのひとの本質

いま思えば

帰る場所がほしいほしいとずっとずっと言っていたのは、安心できる家がほしいと同義だったのだと気付く。
だから、そういう場所ができて、今の私はすこしだけ耐久性があがった。

うちのかぞくのことを書きたい。

夫である見届さんは、文字通り我が家の見届人。
誤解を恐れずいうのなら、恋人だった瞬間など一度も無く、かといってパートナーとも言い難い、正直に言えば養父のような立ち位置。
私にとって、彼は、繭。
シェルターや籠などの、安全だけれど仄暗さがただようものではなく、静謐で白くて柔らかい繭。
私はそこに、入りたいから入るだけ。

猫二匹のうち、
アムは私の皮膚。ミルは私のたましいの一番うつくしい部分を一部切り取って渡している。
アムがくっついている時、ミルと目が合っている時、私の心身は不安感も罪悪感も遠い、穏やかな無に居る。



家族がいることは、私にとって有難いこと。自分で選んだ家族だから尚更かもしれない。
その一方で、仲の良い家族が居る事実だけを私の判断材料にしないでほしいと思う時がある。

生まれや環境や顔立ち、家族構成や表面的な肩書きなんて、その人の本質的な部分を語るうえでは全く関係がない。
いや、意味はあると思う。目安にもなるし、ヒントにもなる。けれど、それだけを使ってその人を語ってはいけない。
人には人の地獄があるし、天国がある。

例えば私にはいくつか傷があります。はたから見てびっくりされることがあるし、ひかれたりもする。
でも私は、このいくつかの傷をみてうっとりする時があるし、つまり気に入っているんだあ。

だからかわいそうとかうらやましいみたいな、『外から人を見た時の感情』のこと、もっと真摯に考えた方がいい。たっぷりの自戒を込めて。

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