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イタリア人に日本語を教えて気が付いたこと

僕が、日本在住イタリア人の友達と話していて思うのは、母語での話し方、癖、ジェスチャーは、外国語でも出る、ということだ。話す言葉は変わっても、人は変わらない。
とても明るく純粋な彼とは、離れていてもいつも助け合えるような仲だ。
今日は、彼を見ていて発見した、外国語が上達するかしないかの分かれ道について書く。

彼は日本に住んで6年経つが、日本語は上手く話せず、聞き取りも苦手だ。それはひとえに、彼が日本の文化を学ぶ姿勢がないからだ。もちろん寿司は好きだし、お祭りや神社、お寺もよく観光している。好きな文化は前向きに取り入れている。
ただ、礼儀やマナーなどの日本人にとって非常に重要な文化は、彼にとっては必要ないことなのだ。自分は、イタリア人だから。

話せないこと、聞き取れないことは悔しい気持ちにならないのか、と聞いたことがある。彼は、「悔しくなるけど勉強する時間がない。語学の勉強が苦手。」と言った。
それは限りなく言い訳であり、悔しい気持ちにならないのは、自分が所謂「外国人」であることに満足しているからだ。
僕が一番憤慨するのはこの部分。日本在住の外国人に対して、声を大にして言いたい。自分が外国人であることを鼻に掛けるのではなく、自分を周りの人と生活する一個人として認識して欲しい。

「今日は何を食べますか?」と聞いているのに、「サッカーが好きです。」と返ってきたら、相手はどのような気持ちになるか。
言葉とは、心と心を繋ぐ道具であり、その道具が錆びれてしまっていては、もちろん心同士も離れてしまう。相手がいてこその、自分なのだ。
相手の気持ちを考え言動や行動をすることは、人間にとって一番シンプルな義務であるにも関わらず、それを蔑ろにしている彼は、辛い言葉を敢えて使うと、人間であることを放棄していると言える。

日本語を勉強していないわけではない彼が、中々上達しないのは、自分のセーフティーゾーンから出ていない、勇気がないからだ。
まるでイタリアン玩具のように扱われることが、ちぐはぐな日本語を話していて恥ずかしくない理由だ。

母国語は最大の味方なのだから、仲良くしながら新しい友達である日本語と手を取り合い、さらに成長する楽しみを感じて欲しい。

今回は、少し過激な言い方が多かったため、誤解をされている方が多いかもしれないが、僕は彼の良いところをたくさん知っている。
日本語が苦手なために、その良いところが半減してしまっているのが、僕にとって辛いのだ。

今日も僕は、彼と簡単な日本語の勉強をしているが、彼の魅力を存分に日本の皆様にお届けするには、まだ時間がかかりそうだ。

Massi

みなさんからいただいたサポートを、次の出版に向けてより役に立つエッセイを書くために活かしたいと思います。読んでいただくだけで大きな力になるので、いつも感謝しています。