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読書する、焼き鳥食べながら

先日、1人で焼き鳥を食べに行った。私は誰かと一緒に行動するのも好きだが、それと同じくらい1人で行動するのも好きだ。

仕事中に職場の人が焼き鳥の話をしていたので、なんとなく焼き鳥が食べたいと思っていたのだが、その日は帰りが遅くなる日で、急に誘える人もいないということで途中までは普通に帰っていた。社会人1年目は1人で食べて帰ることも多かったが、節約のため2年目以降は仕事終わりソロ外食を控えているという理由もあった。

私は通勤で乗り換えが一回あってそこで普通電車に乗り換えれば10分程度で最寄り駅に着く。その日も焼き鳥を諦め、いつも通り普通電車に乗ったのだが、どうも電車の様子がおかしい。どうやら間違えて快速急行に乗ってしまったようだ。このミスは自分の中ではかなり珍しい。

快速急行に乗ると、次は繁華街の駅まで停まらない。やってしまったと思ったが、これは焼き鳥へ行けという何かの縁というか巡り合わせなのではないかというスピリチュアルな答えを見出した。ふとそう感じたので繁華街の駅で降りて焼き鳥へ行くことにした。思わぬ大義が降ってきたものだ。


繁華街の駅に着くとすぐに鳥貴族へ行った。しかし、待ちが多く1人でも待たされるとのことだったので鳥貴族は諦めた。庶民にとっては均一か価格というのは思っている以上に魅力と安心感がある。少しぶらぶらしてどうしようか考えていると、繁華街のはずれに焼き鳥屋があることを思い出した。

行ってみるとカウンター席は空いていたのですぐに入れた。お酒は最近ほとんど飲まないので、いつも通りコーラを頼んだ。メニュー表を見ているとファーストドリンク以降の注文はスマホでQRコードから注文するらしい。確かにこのシステムは便利ではあるが、食事中にもスマホを触らないといけないのは癪に触る。スマホを忘れてゆっくりしたいのに、店側がスマホを使うような仕組みを押し付けてくるのはどうかと思う。

コーラをちびちび飲みながら本を取り出して読み始めた。いつもは喫茶店で本を読むので、居酒屋で本を読むのは新鮮で楽しい。読んだのは知り合いの人に薦められて買った渡辺努『物価とは何か』だ。

知り合いの人は関西の某私立大学院で講師をしている人だ。その人が経済の勉強にどうですか?と薦めてくれたのだ。私は経済学は興味はあるがど素人なので、知識不足に苦しみながら、読んだり戻ったりしながら読み進めた。

そうこうしているうちに焼き鳥や鶏のたたきが運ばれてきた。それらを少し食べては本を読み進める。なんと贅沢な時間だろうか。焼き鳥を運んで来てくれるアルバイトも私の贅沢な時間を羨んでいるか、物価について考える変な奴だと思っているかのどちらかだろう。焼き鳥屋の暗い雰囲気もあって本に集中できる。

本を読んでいると大学生の時に行った四国一人旅を思い出した。高松の鶏の店でビールを飲みながらウィリアム・H・マクニールの『世界史』を読んだ。そう言えば居酒屋で本を読むのはあれ以来だ。


本を読んでいると周りのテーブル席の人たちの楽しそうや笑い声が聞こえてくる。ワイワイと楽しそうにやっている。羨ましくは思ったが、一方、我々は1人になれる瞬間や、強いて言えば1人で何か趣味などに精を出せる時間というはあるのだろうかと思った。

「つながり」は大切であるし、保つべきものであるが、例えばスマホを気にしてメッセージを永遠に返し続ける人生には本当に意味があるのだろうか。そんなことでお互いを殺して、お互いの時間を奪って、なんとなくのつながりを維持するという風潮に対して強い嫌悪感を抱いている。ジムに行ってもマシンに座って一生懸命スマホを見ている人たちばかりだ。

そういったことは別に自分のことではないので、他人のことを否定したりするつもりはないが、少なくともそれに気づいて、自分の主体的な時間を過ごしている自分は幸せだと感じた。それは読書をしているから、1人で焼き鳥を食べているからということではなく、誰かの時間でもなく、紛れもない自分の時間を生きているという能動的な幸せのことである。

焼き鳥屋のワイワイしてる人たちと違って、私は静かに本を読んだ。まったく声も出していない。だが、それでもとても幸せで満足できたし、楽しかった。それは主体的な自分の時間を生きたからに他ならない。そんなことを考えた。

頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)