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『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』を読んで②

前回に引き続き宮台真司『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』について書く。今回は本書の「労働」に関する記述を中心に引用する。

はじめに、ぼくがいいたいのは、日本人は仕事に対して期待をしすぎているということだ。(P92)
水も豊か。土地も肥沃。入会地(共有地)の整備も村人がちゃんと引きついできた。水の神様や山の神様や風の神様がいるといったアニミズム的な自然信仰のもとで、みんなで力を合わせてやるタイプの(=労働集約型の)農業をやり続けて、長くやってこられた。 そういう歴史的な背景があって、とかく日本人は諸外国の人々に比べて、仕事を実際以上にきれいなものに見てしまいがちだ。仕事を「生活に必要なお金をかせぐ手段」と考えず、「自分たちの生きがい」とか「みんなのきずな」みたいにとらえてしまうんだ。 「仕事はお金をかせぐ手段だから、できるだけ少ない時間と労力で生活に必要なお金をかせぎ、あとは自分の好きなように時間を過ごす」というふうに、多くの日本人が考えられない。つまり、〈仕事〉と〈生活〉を切りはなして考えにくい。これは特殊な歴史のせいだ。(P94-95)
昔は先輩のツテとかで偶然に就職した。いまは何十社も比べて比較する。学生は「自分にピッタリの仕事があったんじゃないか」と思いこみやすい。大学が主催する至れりつくせりの就職相談も—昔はそんなものはなかった—そうした思い込みをどんどん助長する。 だから実際に就職できても迷いが消えない。「本当はもっとピッタリの仕事があったんじゃないか」と。1章で「選ぶ能力」の大切さをいったけど(P16)、ここでも同じ問題が出てくる。「選ぶ能力」が乏しい学生は、選択肢が増えたところで幸せになれない。 社会のことも、自分のことも、ロクに知らない学生が、「もっと自分に合った仕事がほかにあるんじゃないか」みたく永久にさまよい続ける。「もっと自分に合った女の子(男の子)がほかにいるんじゃないか」と永久にさまようのと同じことで、正直いってくだらない。(P109)

わたし自身もつい2~3年前に、いわゆる「新卒一括採用の就活」を経験した。たった数か月ではあったが、慣れない服装や作法、知らない大人に多すぎる選択肢、とても疲弊した。

量産型私立文系大学生だったわたしは、就職に対するモチベーションはほとんどなかった。お金を稼ぎたい気持ちや、フリーターになりたくない気持ちはあったが「やりたい仕事」はなかなか見つからなかった。現代のデジタル就活にならって、毎日Twitterを見るように、〇〇ナビという就活サイトを眺めた。わたしの就活はその作業に膨大な時間を費やした。およそ就活に関する時間の8割はこの作業ではなかっただろうか。

なぜ、ここまで就活サイトを閲覧する時間は長くなってしまってるのかと言えば、それは宮台氏が指摘するように他の多くの就活生と同じく、仕事に対して「期待」していて、「生きがい」も求めていたからだ。そうなると福利厚生や勤務条件では良さそうに思えても、そういった付加価値が見いだせないとなると、すぐに除外した。

眺めれば眺めるほど、次のページにこそは、自分にあったやりがいのある仕事が表示されるのではないかと思っていた。そして見れば見るほど、どの仕事に就けばよいのかわからなくなってしまった。心理学にはジャムの法則(選択肢が多いと人は選べない)というモノがあるが、まさにこれがそうであっただろう。わたしには宮台氏の言う「選ぶ能力」が少なくとも就職活動においては欠けていたと思う。


当たり前の話だけど、仕事で「生きがい」を感じられる人は、ごくひとにぎり。ラッキーな人だけだ。仕事に「生きがい」を感じられる大人になろうと、一生けんめい勉強、努力して就職しても、大部分の人はおそかれ早かれ「どうも無理そうだな」という話になるんだ。(P110)
実際、労働者に「生きがい」をあたえるための会社なんてない。会社はもうけるためにある。もうけるのに役に立つ限りで「生きがい」を与えるだけだ。(P112)
実際はともかく、「生きがい」をあたえてくれ「そうに見せる」だけで、企業は目的を達成することができる。実際企業に入って「生きがい」が得られなくても、キレイゴトが批判されて企業が傷つくことはあり得ない。なぜか。社会は100%、カン違いする君が悪いというふうに受け止めるからだ。(P114-115)


そして、そんなわたしもなんとか就職した。初めのうちは夢中で働いた。というか単純に、仕事や作法を覚えることに必死で「やりがい」「いきがい」について考えを巡らす時間が無かった。

だが、仕事にもある程度慣れてくと自分を見つめ直すことが出てきた。「あまりやりがいを感じられない」「生きがいとは」「そもそも自分の仕事に意味などあるのか」「誰かの役に立っているのか」という疑義が生まれるようになった。そんなときにたまたまこの本を手に取ったのである。

そこでハッとした。そうだ、そんなに多くの人が仕事に「生きがい」を見出せるものではない。そんな楽しいもではないのだ。確かにそこに「やりがいを感じながら働く人」というのも一定数存在するが、それはあくまで実在するというだけで、多くの人に当てはまるロールモデルではないのだ。宝くじの当たりはあれど、当たる人が少ないのと同じだ。

そして引用にある通り、会社や組織がメンバーそれぞれに「生きがい」「やりがい」を与えてくれるというのも、また幻想だ。どれだけ優しい社長でもリーダーでも、福利厚生が手厚くあっても、結局は会社や組織のことを考えたうえでのことだ。就職前に「やりがい」がありそうに見えて、実際はそうでなかったとしても、自分のせいになって終わるだけだ。


これらの引用した部分を読んだとき、わたしはどこか気持ちが楽になった気がする。それはわたし自身も、他の就活生や社会人と同じように、「生きがい」「やりがい」を求めていたからである。引用した箇所は痛いほど共感できた。そう、仕事に「生きがい」を求める人生はある意味では誤った生き方なのである。そんな人生を掴める人はほとんどいないからだ。

それよりも仕事はお金を稼ぐ手段だと割り切って、仕事以外の部分に「生きがい」や充実を求める方が現実的で理想的な生き方でなのである。


書評を書こうと思っていたが、かなり自分語りぽくなってしまった。だが、多くの人がこのような「幻想」を持ち続けていることは事実なのではなかろうか。仕事をなんとしてでも「生きがい」にしたい、仕事に「やりがい」を見つけたい、そんなことを考える人は非常に多いと思われる。だが、そういった希望はかなり非現実的だ。早めに、仕事以外の「生きがい」を見つけることをオススメする。


【参考】

宮台真司『14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に』2008 世界文化社









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