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『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』を読んで①

久しぶりに読書について書こうと思う。読書や書評に関しては書きたい気持ちはあるものの、膨大な時間がかかるので避け気味である。

今回は宮台真司『14歳からの社会学 これからの社会を生きる君に』だ。この本は前から知っていたが、子供向けかと勝手に判断して買わなかった。だが年末にたまたまBOOKOFFで売っていたので、安く買えるならと買ってみた。

宮台真司は当たり前を疑う社会学者として有名であるが、その著作をちゃんと読んだことはなかった。なのでこの本はかなり良い機会になった。本作はタイトルにもあるように青年向けの著作であるため、語りかけるような言葉遣いで文体が易しい。

個人的にはプロの研究者が専門分野を「わかりやすく書く」「平易な文章で書く」というのは案外難しいことだろうと思っている。普段は難しい文体や用語を用いているだろうし、そもそもターゲットとなる相手は社会学はおろか、社会での経験すほとんど無いからだ。それでも14歳というターゲットを想定してのこういった試みは貴重だ。

だが、本作の内容自体は簡単だとは言い難い。14歳はおろか、社会経験を積んだ人にすら完全には理解できない部分があるだろう。それはそもそも「社会」や「社会学」がそんな単純なモノではないからだ。心理は1人1人の作用であるが、社会は誰かとの関りや他者のまなざし、多くの相互作用によって成り立つ。そういった難解さも心得る必要があるとは感じた。

それでは気になった内容を引用しながら、色々と考えたい。すべてを抜き出すと膨大な量になるので、個人的に印象に残った部分を引用する。


昔は「みんな」という言葉が、誰から誰までを指しているのか、イメージしやすかった。「みんな」の顔が見えていたから、「みんな仲よし」もタテマエじゃなかった。そういうことだ。 逆にいえば、いまの社会では「みんな」という言葉が、誰から誰までを指すのかイメージしにくくなっている。「みんな」の顔が見えにくくなっているのに、昔と同じように「みんな仲よし」といわれたって、実態とかけはなれているから、タテマエに聞こえてしまうんだ。(P9)

「みんな」と聞いてイメージする人は誰であろうか。隣にいる人も「みんな」だとみなせるだろうか。そう、以前は確実な「みんな」が存在していた。「ムラ社会」に代表される集団の意識があった。例えば近所の人も皆が顔見知りで、近所の人のこともよく知っていた。誰もが気軽に協力して、支え合うシステムがあった。

だが、今はそうではない。マンションの隣人の名前すら知らない、家族1人1人に個室が存在する、大都市ですれ違う数多くの他人など、「みんなの範囲を意識しにくくなった」のだ。かつては「ムラ」「自治会」として認識していた範囲も見えにくくなった。社会がそう変化したのだ。

単に「みんな」と言われたとしても、その「みんな」が見えにくい、そもそもその「みんな」が多様化しているということもあり、「みんな」という形は複雑化されていると言えよう。

自由であるためには「尊厳」が必要なんだ。「尊厳」は、君以外の人(他者)から承認される経験を必要としている。逆にたどれば、他者から「承認」された経験があるからこそ、「尊厳」(「失敗しても大丈夫」感)が得られ、それをベースに君は自由にふるまえるんだ。(P20)

「自由」については様々な見解や意見が存在する。「自由に生きたい」「もっと自由でありたい」は誰しもが思うであろう。だが、その「自由」とは何か、その範囲とは、ということを考えると意外と難しい。

本書では「自由」であるためには「尊厳」が必要だとされている。誰かに対して自由に振舞えるということは、「尊厳」があるということだ。例えば仲のよい友人には好き勝手言って自由に振舞えるだろうが、初対面に人にはそうはいかないだろう。それはその初対面の相手からの「承認」が与えられていないからだ。何を言えば喜ぶのか、何をすれば怒るのか、何を言ってはいけないのかがわからないからだ。

我々は普段、自由に振舞うことがあるだろうが、それはもちろん法律やルールにも基づいたうえで、実は「他者からの承認」や「尊厳」を感じとったうえで行動しているのである。「これは大丈夫」「これはダメ」ということがわかっているからこそ、自由に振舞えるのである。

自由とは我々が広く思うように「好き勝手する」ということとは違うようだ。

僕たちはなぜこんでいる電車に乗っていられるのか。なぜレストランに入ってご飯を食べられるのか。いつもは考えなけいけれど、考えてみれば不思議だよ。こんでいる電車は知らない人だらけだし、レストランで出てくるご飯も知らない人が作ったものなのに。理由は、見ず知らずの他者たちを信頼しているからだ。「いままで乗っていてもヘンな人におそわれたことがないから大丈夫」「いままで食べた時ときも毒が入ってなかったから大丈夫」となんとなく思っているから、こんでいる電車に乗れるし、レストランでご飯が食べられるんだ。 この「なんとなく」を支えているのが「共通前提」だ。それが完全に消えちゃうと、ぼくたちは電車に乗れないし、レストランでご飯も食べられない。実際にそうした「共通前提」をおびやかす事件(通り魔事件や食品偽装事件)が起きている。そう、近ごろはそういう時代になった。(P28)

我々は意識することが無いが、身の周りには多くの「共通前提」が存在する。「〇〇は△△だ」「〇〇するべきだ」「〇〇してはいけない」といった意識されないことがらのことだ。これらがあるおかげで生活やコミュニケーションが円滑にできるし、本文のように多くの他者に囲まれながらも生活することができる。

考えてみて欲しい、電車を運転している人も外食で料理を提供してくれる人も皆、「知らない他人」なのである。「他人」「知らない人」という言い方をすると警戒する対象になるが、それらの人に頼って我々は実際に生きているのである。それを可能にしているのが「共通前提」なのである。

だが近ごろでは、社会の変化と共に、この「共通前提」が揺らぐようになってきた。2021年11月にはジョーカーに扮した男が京王線内で放火をするという事件が起きた。このような事件があると「共通前提」が大きく揺らぐ。例えば「他人と乗り合わせる電車に乗っても大丈夫という共通前提」が脅かされてしまう。

そして、我々の生活は「信頼」によって成り立っているということを改めて感じる。外食も電車も、宅配便も学校の先生も、物品を提供してくれる人、サービスを供給してくれる人誰もが他人である。青信号で安全に進めるのも赤信号側の人に対する信頼があるからだ。我々は意識しないが、我々の生活は「信頼」によって支えられているということを改めて感じた。


②に続く

頂けたサポートは書籍代にさせていただきます( ^^)