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同期から気づく「世界線」

先日、職場で研修があった。この研修は単に座学として講師の話を聴くだけでなく、自分の仕事における問題点や疑問について実際に調べてたり、上司に相談をしたりして、問題解決力をアップさせようという内容の研修だ。

参加者は同期ばかりだが、なんせ人数が多いため知らない同期の方が圧倒的に多い。顔は知っているが名前はわからない、名前は聞いたことがあるが顔とは一致しない。常にずっとマスクをしているため、そういう同期がたくさんいる。

それでも何とかグループワークなどを進めていくわけであるが、皆、仕事の内容がまったく異なっている。それは至極当たり前のことではあるが、「仕事」と聞くと、普段自分がこなしていることが世の中の全てのように思い込んでしまっているので、その思い込みに改めて気づかされる。

グループワークでは各々がそれぞれの課題や解決法を発表するが、その仕事内容は一人一人まったく異なっていて、とても興味深い。デスクワークもいれば、外回りもいるし、ハンコをたくさん押す仕事もあれば、ハンコを無くそうと努力する同期もいる。

一緒に黒のリクルートスーツを着て、採用試験を受けて、働き始めたはずなのに、配属が決まってからはそれぞれの仕事を任され、それぞれが違う、業務内容、生活、人間関係の中で生きて、いや、これからも生きてゆくのである。

そう考えた時、頭の中に「世界線」という言葉がよぎった。確かネットか何かを見ていた時に見た気がする。「世界線」とはもともと相対性理論に用いられる物理用語であるが、俗にはパラレルワールドの意味で使用されることが多い。例えば、Official髭男dismの楽曲『Pretender』では、

もっと違う設定で もっと違う価値観で 出会える世界線 選べたらよかった

という歌詞がある。要は今ここに、目の前にある世界は「真の世界」であるが、それは多くの選択や意思決定、偶然によって決まった世界線であり、他にも無数の世界線(わかりやく言うならば可能性?)があったということである。

我々の認知する世界は一つであるが、認知できていないところに別の世界線や空間があるのかもしれないし、少なくとも別の世界線が生まれる可能性はあったということは言える。

自分が生まれなかった世界線、小学校受験をした世界線、友達とケンカをした世界線、高校や大学に受からなかった世界線、別の仕事に就いていた世界線など、我々は、認知上は、実に多くの世界線の中から一つの世界線を生きているのである。そしてそれらは、自分の意思によっても、不可抗力によっても、環境などによっても生み出されてきた結果なのである。

そう考えた時に、まず「自分がこの仕事に就かなかった世界線」とはどんなものなのだろうかと思いを馳せることがあるし、「目の前の自分とはまったく違う仕事に着手する同期のポジションに自分が配属されていた世界線」というのもまたどこかにはあるのだなぁと感じてしまう。

そして、その時、私も目の前の同期と同じ問題点や課題を見つけるのだろうか、それともこの同期と自分は性格が違いそうだからもっと違う部分に着目するのだろうなぁと考えることもある。

仕事に限らず、嬉しいと思えることや不満に感じることもある。だが、それは多くの世界線の中から、たまたま決まった世界線なのであって、そうじゃない世界線が存在していたし、存在しているのかもしれない。

そう考え始めるとキリがないが、我々の認知する世界が唯一の世界線や可能性ではない、ということは言えると思う。noteをパソコンでボーッと書いている今この瞬間にも、多くの世界線が生まれ、多くの世界線が消えていって(もしくは認知できないところにいってしまって)、多くの世界線が生み出されようとしているのだ。

多くの同期が一生懸命にプレゼンをしているのを見ていたら、そう感じた。



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