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「翼はいらない」にみる逆説的アプローチ

AKB48の曲に「翼はいらない」という曲がある。私はアイドルに興味があるわけではないが、この曲はけっこう好きなので記事にしたいと思う。

大学1年生の時、三宮のBOOKOFFをぶらぶらしてるとこの曲が流れてきた。好みの曲調だったのですぐに音楽検索アプリで調べるとこの曲だということが判明した。


「翼」や「飛ぶ」という単語がこの曲には登場するが、確かに人類は常に空を飛ぶことを夢見てきた。それが飛行機やヘリコプターといったモノの開発の原動力になってきたはずだ。他にも漫画ドラえもんの「タケコプター」に憧れたり、SFの空飛ぶクルマに憧れたりする人は多い。「空を飛びたい」「鳥になってみたい」という欲求は昔からも、今も変わらないはずだ。

だが、なんとまぁ「翼はいらない」というタイトルは、そういった事実をバッサリ切り捨てるような響きがあり秋元氏らしく斬新だなと感じた。


そして歌詞に注目すると、

空を飛ばなくても 歩いて行けるんだ
そんなに急ぐことはないさ しあわせは待っている


翼はいらない 夢があればいい
大地を踏みしめながら ゆっくり歩こう


それでもなぜだろう? 歩こうとしている
自分で汗かいてるうちに しあわせは近づくよ


鳥は空から 僕らのことを 眺めて思う
翼がないって 素晴らしい


空を飛ばなくても 歩いて行けるから
自分が持ってるものだけで しあわせになれるんだ


歌詞の中では一貫して「翼はいらない」「空を飛ばなくていい」ということが繰り返される。ただよく聴いていくと、それは単にひねくれや「空を飛ぶこと」を否定しているわけではない。「翼はいらない」ということと同じくらい、「歩いていこう」ということが強調されている。

秋元氏はフォークソング調のこの曲を通じて「当たり前の大切さ」「隣の芝生は青く見える」「ないモノねだり」ということを説こうとしていたのではないだろうか。


我々には長年の進化を経て獲得した「二足歩行」という特性がある。この特性のおかげで我々は「歩くこと」「移動しながら手を使うこと」ができる。歩きスマホができてしまうのもこの特性のおかげだ。

しかし、我々はその特性を当たり前だとし、「空を飛ぶこと」や「鳥の特性」にばかり目を向ける。翼があれば「もっと速く」「もっと楽に」「もっと遠くへ」という可能性を捨てきることができない。

だが、そういった「翼さえあれば」という理想「可能性に生きる態度」に秋元氏はこの曲で釘をさす。「お前たちには脚があるだろう」「歩くことができるじゃないか」と。空を飛ぶことや可能性にばかりうつつを抜かさないで、我々の持つ特性を生かしてゆっくり歩いて行こうじゃないかと説いているように感じる。

時には鳥の目線から歌詞を書き、「翼がないって素晴らしい」とする。一見優雅な鳥や理想に思える「空を飛べること」にも苦悩があるのだ。


また、MVでは1972年ごろの学生運動を舞台にしていることも大きく関係があろう。学生運動対し手は様々な考察がなされているが、持たざる学生たちが、国や大学という権力や巨大な存在に立ち向かっていったという姿はこの曲と重なる。

翼(強大な力や権力)はなくとも、歩くこと(団結や声を合わせる)はできる。だから、できることからやろうじゃないか。そういった比喩が埋め込まれているのではないかと個人的には思う。

「翼がいらない」のではない。「翼の無い自分を見つめ直そう」ということだ。


飛べなくてもいいじゃない


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