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【エッセイ】私はこれを夏とは呼ばない

令和6年9月23日、やっとのことで秋の到来を感じた。

最高気温は30度を超えず、涼しい風が夏服の隙間を通り抜けると、ぞくりとする寒さの気配がする。

思えば、今年の8月、はじめて救急車に乗った。

猛烈な暑さの中、気がつくと感受性が死んでいた。前頭葉が茹であがるような、意識の空白に驚きさえ感じなかった。

それに気づいたときにはもう遅く、崩れるようにして床に倒れた。幸い、倒れたのは屋内で、冷たい床に助けを求めるように身を横たえたのを覚えている。

「血管が細くなってて入りづらいわ、脱水の症状だねえ」

そう針を持ちつつ語りかける看護師の声が耳にはっきりと入ってきた。そうして点滴を打たれ、しばらくすると、少しずつ感受性が帰ってきた。

私の住む県は47都道府県ご長寿ランキングで下から数えた方が早い。理由は様々あるだろうが、内陸の盆地に暑さが立てこもるようなこの地で、死神が熱中症という鎌を容赦なく振りかざしているからじゃないかと私はふと思った。

思い出せば思い出すほど嫌な季節だった。うれしい出来事はあったものの、この暑さの不快さに幸せがかき消されていくようだった。

私は夏が好きだった。暑さの中、ほどけるように溶けるアイスクリーム、プールに行けば乱反射する光が水面で楽しく踊っている。山に行けば眠っていた生き物が、生を謳歌するように飛び回っている。

しかし今年は異常だった。ソフトクリームを手に持てば、溶けるスピードが速すぎてぼたぼたと指の隙間を流れていく。プールのコンクリートは焼けた鉄板のように熱く、その刺すような暑さにセミすら黙る日もあった。

これが夏だなんて、私は認めない。最高気温35度が毎日続くようなこの季節を、私は夏と呼びたくない。

あの日、救急車で運ばれてから、毎日が生きるための戦いだった。死神の指が頸動脈をのぼって脳を握ってくる。体を巡回し、頭に溜まる熱のかたまりが、そのイメージをぼんやりと浮かばせて、また感受性が死んでいく。

倒れた時に、私を助けてくれたのは見知らぬ人たちだった。死神に肩を掴まれ、パニックになった私の手を、誰かが強く握ってくれた。暑さに身もだえる中、あの誰かの手から感じた熱は、ひたすらに優しかった。

それとは対照的に、家族はかなり非常識な行動をしてしまっていた。倒れている私より自分の事情を優先したり、ほかの人に迷惑をかけないようにと、また別の迷惑をかける親の姿を切羽詰まった意識の中で見上げていた。

倒れたことよりも、親の非常識を見るはめになったことの方がはるかに嫌だった。もしあの時、そのまま死んでいたら──きっと親を怨むために現世に残っていただろう。こういった親の至らない点を目の当たりにさせた、この季節が私は大嫌いだ。

しかし人の優しさを感じたのもこの季節のおかげで、本当に複雑な気持ちにならざるを得ない。もし、似たような状況がまた訪れたら、私は手を差し伸べる側の人間になりたい。そうして与えた恩は早々に忘れて、いつもの日常に戻りたい。

私は今回のこの季節を、決して、「夏」とは呼ばない。来年こそはしっかりと、最高気温が30度、高すぎてせいぜい32度までの、今では懐かしいあの夏を返してほしい。

唯一の救いは、この酷暑のせいで蚊がいなかったことくらいか。しかし、暑さで苦しむくらいなら、脛のかゆさくらいなら許容したいとさえ思う。

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