僕にとっての「地域おこし協力隊」【地域おこし協力隊との出会い編】
ルーツである、広島県安芸高田市の地域おこし協力隊となって、まもなく3年が経とうとしている。そう、ついに任期満了でお別れの時がやってきたのだ。
せっかくの機会なので、つらつらとnoteに書き記しておこうと思う。
「地域おこし協力隊」との出会い
2013年10月13日。
当時まだ広島に住んでいた僕は、岡山県美作市上山という、かつて8,300枚の棚田があったといわれる集落へ来ていた。当時某TV局でキャスターをしていた妻のネタ探しのためだ。
事前にネットで見つけていた「地域おこし協力隊」と呼ばれる人にコンタクトして、会う約束をしていた。
しばらく待っていると、そこに現れたのは、髪がボサボサのそっけない青年、美作市地域おこし協力隊OB(第1期生)の水柿大地くんだった。
そっけないのはそれもそのはず。
大地くんは子どもたちの農村体験受け入れ真っ最中だった。
全く作業をしそうにない普段着の僕たちを見て、「何しに来たんだこいつらは?」と思っていたのだ。(後日聞いたらやはりそうだった。笑)
一通り案内をしてくれた彼は、上山地区のてっぺんにある雲海温泉に併設されたレストランに連れて行ってくれた。
そこにいたのは、これまた協力隊OB(第1期生)の西口和雄さん(カッチ)と、
協力隊OB(第2期生)の梅谷真慈さん(梅ちゃん)だった。
「おれらの作った棚田の米をな、これからSMAPが売るんや」
胡散臭い関西弁でカッチがそう話したことを、今でも鮮明に覚えている。
と同時に、次々とものすごいスケールの大きな話ばかりするので、「ヤバい集団なのかも...」とも思った。
しかしSMAPのそれは、数日後現実となった。
上山に初めて行ったその日に、この3人に出会ったことで、僕たちの上山移住が加速していくこととなった。
岡山県美作市上山に初めて地域おこし協力隊が着任したのが、2010年のこと。上山は地域おこし協力隊制度がスタートして2年目に、協力隊を導入した全国でもトップクラスの先進地だった。
棚田の集落"上山集楽"へ移住
そして2014年3月22日。
初めて協力隊と出会ってからわずか5ヶ月で、広島市から美作市上山へ移住することになった。
僕と入れ替わりで西粟倉村へ引っ越してしまう、協力隊OB(第3期生)の井筒耕平さん一家が住んでいた家に引っ越した。
「地域で生きる」とは
上山に移住した僕は、NPO法人英田上山棚田団に所属し、棚田再生活動をして暮らしていた。
3年間、ひたすら草を刈り、夏は田んぼで米を作り、冬になれば耕作放棄された棚田再生か、山で木を伐りまくった。
継続する力
上山で暮らすための必須スキルは「草刈り」だ。
それも「速く・綺麗に・美しく」でなければならない。
そして地域に入り込むのに、一番わかりやすく住民に認めてもらえるのも、この草刈りスキルである。
口でどれほど偉そうな講釈を垂れていても、草刈りができていなければ全く相手にされない。これは中山間地域において共通していえることだと思う。
余談だが、上山から引っ越すことを告げた時に、「だったらなんか結果出してから行け」と言われた僕は、担当していたエリアの耕作放棄された棚田2ヘクタールを刈ったのはいい思い出。笑
「地域おこしをしよう」と思わない
上山では、一般的によくある「地域おこしをしよう」という文脈は皆無だ。
地域のルールは守りつつ、常に新しい視点で「自分たちの新しい集落」を作ろうとしている。完全に土着し、移住者としてではなく、地域住民として根付いているのだ。
生きるための力をつける
上山の地域おこし協力隊は、市との雇用関係はなく、行政ミッションは持っていない。ベースとなる「棚田再生活動」は、上山に住むための必須条件であり、稼ぎは3年間の間でそれ以外の時間で各々が生み出すのだ。
棚田再生+地域福祉
棚田棚田+獣害対策・鹿皮製品+宿
棚田棚田+野草で地域医療に貢献
棚田再生+カフェ運営
棚田再生+木工制作+宿
棚田棚田+キャンプ場経営
誰に雇われるでもなく、一人ひとりが個人事業主であり、社長なのだ。
全員が思い思いにやりたいことを仕事にしながら、人手が足りなければお互いに手伝う協働の関係。誰かの指示を待っていても仕事は生まれない。
協力隊として、市のミッションをこなすだけでは、まちは何も変わらないし、自分も何も変わらない。いかに「自分ごと」として行動できるかにかかっていると僕は思う。
上山で暮らした3年間が、今の僕の基盤となっている。
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