右目・左目それぞれの特性

※本ブログは3度繰り返して読んでいただくと情報が有益なレベルにまで浸透します。

右目は社会性に対してチューニングする目。
左目は永遠性に対してチューニングする目。

よってどちらの目をどのくらいの割合で使っていくか、を意識して訓練していくことができると、永遠性と社会性の切り替えがスムーズにできるようになる。よく精神世界のことを社会性の中に持ち込もうとして急に現実離れしたことを言い出す人や、反対にあまりにもお堅い保守的な思考で固まっている人を見かけるがこれらはどちらも視点が片方の目に偏ってしまっているためだ。

夏目漱石は I love you.を和訳する際に「月が綺麗ですね」と訳したとされる。これが本当かどうかはさておき、月は物質的にはただの天体だが、これがエーテル的にはダイレクトに人の情緒と結びつく性質を持っている。だからこの月を物質的に見ることが右目の作用であり、月にいつまでも変わらない愛を見出すことが左目の作用なのだ。

両方の視点、両方の可能性をなぜ人間が与えられているかといえば、それは人間が物理的な肉体をまとって存在しているためである。これが人間がお化けや精霊達のように物理的な肉体を持たない存在ならば基本的に左目の世界だけで十分なのだが、肉体を持っている以上、個体性を識別できる力も必要ということで右目の力を与えられているのだ。

しかし、この右目の力は今の時代はあまりにもそれが優位になりすぎており、本来の永遠性、はじめも終わりもない世界観に根ざした存在としての自分たちを認識する左目の力は極度に蔑ろにされている。これを回復させた後にうまく切り替えられるようになることがとても大切だ。

切り替えがうまく利くということはそのまま関係性をフリーにしたり、立場に余裕のある状態を作り出す。私たちはある物体をリンゴだと認識した瞬間には“私はリンゴを食べる・リンゴは私に食べられる”という立場を確定させる。

これが人間関係になると役職や夫と妻といった立場の固定化がそのまま日常的な役割へと落とし込まれていく。しかし、ここでこの配役があくまで絶対的なものではなく、お互いに社会的な立場を演じているに過ぎないと気がつくことができると、それらの配役に対しての“塩梅”が立ち上がってくるのだ。

この塩梅は明確にルールや規格にそって作られるものではなく、あくまであらゆる状況を加味してゆらぎの中で決定される流動的な要素だ。融通が利く、利かないという印象を第三者が感じるのはこの点の有無なのである。

今、この世界はどんどん法律や規則が増えており、固定化が進んでいる。それは右目主体の世界観であり、このような環境は必然的に閉塞感が強くなるものだ。だから全体性を考えたとき、どんな法律や規則が本当に必要で、何が不要なのかは、あくまで人間の社会的な部分とエーテル的な部分とを同等に吟味しながら進めていく必要があり、その根本的な段階から発想し直していくためには、人間の意識構造をより深く研究していくことが必須になってくるのだ。

左目の世界観を少しでもあなたが日常で回復することに成功すれば、これまで多くの可能性を見落としてきたことに気がつくことができるだろう。



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