性的な身体意識を超えて繋がる
※本ブログは3度繰り返して読んでいただくと情報が有益なレベルにまで浸透します。
男女が一通り愛を交わし合った後、お互いのエネルギーが十分に混ざり合い、互いの均衡が保たれている、これが絶対条件です。
そのような状態になったなら、その後に訪れる余韻を二人は性別を超えた〈無性のパートナーシップ体験〉として経験するだけの権利を得ることができます。
この状態は直前や行為の中では激しく突き上げてきていた性センターの主張がすでに鎮静化しているためです。よって行為後の人の身体意識の焦点は、自ずと下半身からハートセンターに上昇することができるのです。
そしてその状態において男性側は初めて睾丸の方向付けから意識が解放されるし、女性は子宮でも膣でもなく、目の前の人物に対しての“男という思い込み”を手放すことができる。
この女性が男性に対して思い込みがちなパターンとは俗に「一発やったら捨てられる」「カラダだけが目的」「やる対象としてしか見られていない…」などの失望、悲しみです。
人間というのはどんな人物であっても多面的、多重的になっており、その全てのレイヤーが、それぞれ必要があって折り畳まれて一つになっていることをくれぐれも念頭に入れてください。
そしてだからこそ、一つの側面だけがその人物だと断定してはいけないし、もし、自分がある人物に対してそのような〈見なし方〉をしたのなら、そのような視点の固定化を行った自分の癖を迅速に戒められるようになることが極意になります。
私たちはいつでもまず社会人として誰かと知り合うところから物語を始める。そして社会人同士での交流から場合によって男女の交流という段階へと深度を深めます。
しかし問題はここからで、この男女という関係性がもし発展的、調和的でなかった場合、その反動がそのままその本人の人生観に反映されてしまい、その波及効果が〈社会人としての私〉にまで及んでくるということ。
そして恋愛やセクシャリティの中から自分を進化させるエッセンスを抽出することなく、その関係が破綻すると、人はそのダメージによって固定化した視点を携えて再び社会人として生きることとなります。
すると視点が凝固してしまっているために、その後いくら新しいキッカケを見つけようとしても、すでに自分が本当に希求している関係性にアクセスするための土台(視点)を見失ってしまっている…ことに気がつけないのです。
こうして永遠に低域・低俗で表面的な「社会人〜男女の関係」という幅を行き来するループ生活にハマっていきます。
だから、人は一旦その関係性が社会人から男女の性愛へとステップしたのならば、あとは何としてでも更にその先の男女を超えた無性の人物としてお互いをまなざせるところまで至る必要があります。これに迂回する道のりはない。
そしてこの性別に寄らない人間関係による純粋な交流が、再び社会人としての自分に戻った時に、良質な余韻としてオーラに纏われるよう秩序化するのです。
この関係性の進展の仕方だけが、唯一我々人間が与えられているすべての素材・側面を有効に使うためのプロセスです。
これを変に性的嗜好を抑圧したり、暴走したりといった振れ方になるのは、私たちが〈性〉という高次元のリソースに対してそのエネルギーの高さから恐れを感じ、目を背けてきたからです。
以前、「曼荼羅は描いたあとにすぐに消すことで効果を発揮する」という記事を書きましたが、これはセクシャリティに関しても全く同様だと述べることができます。
私たちがお互いの性的な視点を超えて活動するためには、大いに性的に行為する必要があるのです。
そして十分にこの力強さに対して扱い慣れたもの同士だけが、その後、性別という二元化された枠組みを超えて関係性を構築できる水準に至ることができます。
そこに待っているのは当然ハートの繋がり。これは感情とは違う、明るく澄みわたる根源的パートナーシップです。
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