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SF映画の原点にして頂点である「メトロポリス」を概観。美しくも深い、分断された格差社会の寓話

前に『ロボットと「心」の時代』という記事の中で、映画「メトロポリス」を引用しました。


今回は、その「メトロポリス」について書いてみたいと思います。

(この記事は、性質上、ネタバレを含みます。ネタバレを回避されたい方は、これ以上は読まれないようにお願いします。)


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SF映画の原点にして頂点

1926年にフリッツ・ラング監督によって制作され、1927年にドイツで公開された「メトロポリス」はSF映画黎明期の傑作です。初めて映画にロボットが登場した作品であり、フォレスト・J・アッカーマンは本作を「SF映画の原点にして頂点」と評価しました。原点にして頂点であるという言葉どおり、現代を生き、様々な社会課題に直面している我々にも大きな示唆を与えてくれます。

現在、「メトロポリス」を観ても、その作品の奥行きの深さと完成度の高さに唸らされます。初演から90年以上たった今もなお、叙事詩的なSFのテンプレートであり続け、映画作品では「2001年宇宙の旅」や「スター・ウォーズ」、「ブレードランナー」や「バットマン」、「未来世紀ブラジル」や「Dark City」や「equilibrium」、日本では、手塚治虫による同名のマンガ「メトロポリス」や、寺沢武一の「コブラ」等、数え切れない程のSF作品にインスピレーションをもたらしてきました。

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普及しているのは1時間30分の版ですが、元々のオリジナルは3時間10分の無声映画です。

2026年高度機械文明が発達した都市メトロポリス。摩天楼そびえるこのメガシティにある、地上の豊かな知識階級の世界と地下の労働者階級の世界による格差社会。地上は華やかに着飾った人々が、享楽にふけりつつ、幸福そうに生活をし、対して地下は汚れた労働服に身を包んだ人々が、疲れ切った虚ろな顔で行き来する。それぞれの世界を生きる、知識階級のフレーダーと労働者階級のマリア。この二人と、マリアに扮する一体のロボットを軸に物語は展開していきます。


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「メトロポリス」の荘厳な美しさ

「メトロポリス」という映画の特徴にその荘厳な美しさがあります。1920年代初頭のドイツ表現主義演劇にルーツを持つこの作品には、その時代ならではのプログレッシブなエネルギーが感じられます。「メトロポリス」は、1万3千人のエキストラ、20万人分以上の衣装、そして様々なシーンで登場するバラエティに富んだ巨大セット群というスケールを有し、撮影には15ヶ月を要して、その間に当初の予算は6倍以上に膨れ上がりました。

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天才的なバレエの振り付け、演出、壮大なセットデザインが、世界の断絶の有様を滑稽に浮かび上がらせつつ、時に美しい瞬間を私達に見せつけます。本来メタリックなボディを持っていたロボットが、マッドサイエンティストのロトワングの手によって、マリアの姿をして生み出されるシーンはとても魅惑的です。その優美なボディのまわりを電光のリングが包み、ゆっくり上下する映像は、息もつかせぬ感動を与えてくれるでしょう。マドンナやレディ・ガガは、その映像美からインスピレーションを受け、彼女たちのミュージックビデオやライブパフォーマンスにそのエッセンスを取り込んでいます。この映画の持つ特有の美は、今日までビジュアルカルチャー、ファッション、インテリアデザインにもその影響を与え続けてきています。

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格差社会の寓話

そして、本作は未来における格差社会の寓話です。

この映画は、分業によって極限まで単純化された労働、息苦しい監視と管理、そしてテクノロジーの悪用がもたらす非人間的な影響について語っています。一貫して現実の世界の映し絵であろうとしており、社会の発展が内在している恐るべき問題を告発しようと試みています。見栄えは多少異なれど、現代の社会システムは、ネットワークを介した極度の分業と、ビッグデータ解析による行動情報の収集による監視、そしてソーシャルメディアによって分断されていく世界、と同様の課題をもって具体化しています。分断、断絶は「メトロポリス」の中でも重視されているポイントです。映画中の言葉を借りれば、「彼らは同じ言葉を話しているのに、お互いを理解し合うことがない」。それはまるで我々が今、目撃している世界の姿ではないでしょうか。この映画は、人類の進化の本質を見抜いたのでしょうか。それともただの偶然でしょうか。

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複雑な革命の姿

「メトロポリス」はその大部分において、人間性の回復と断絶された階級間の和解というメッセージで彩られており、序盤は労働者たちによる革命への期待をもたせます。 第一幕では反工業化の立場をとり、労働者の権利は支配者のエリートが使う技術によって苦しめられていることがわかります。フランス革命を連想させる「ラ・マルセイエーズ」の旋律とともに、熱狂的な労働者たちは、都市を動かす機械を無造作に破壊し、革命をなそうとします。

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ですが、発電機の破壊により、地下の世界は崩壊し、浸水によって水没。罪のない人々に大きな被害がもたらされ、労働者の子供たちが命の危険に晒されます。この映画は物事はそう単純ではないのだというメッセージを提示します。大衆感情によってもたらされる反逆はより広い自己破壊をもたらしてしまうという警告をしてくるのです。まるで、突然に反革命主義的なトーンが顔を出したかのようです。あるシーンでは中央集権的政府が社会の最善の利益になるかもしれないことを暗示しており、複雑な様相を見せます。

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人間的なものへの変革

ですが、そのような複雑かつ相反する出来事と葛藤を経て、最終的に登場人物たちは和解へとたどり着きます。総じて「メトロポリス」は、社会をより人間的なものへと変革していくべきだという情熱的な呼びかけであり、同時に、もし我々が断絶を放置し続けたら、あるいは体制の転覆によってそれを正そうとしたら何が起きてしまうのかという「和解への信念を持たないことに対する結末」に関する警鐘でもあります。そういう意味では、本作は、まさに格差と断絶を世界的に目にしている現代を生きる我々にとって多くの示唆がある映画とも言えるでしょう。市民の自由、カースト、ファシズム、技術的ディストピア、社会革命等、古典的なトピックに関する観点が散りばめられており、今までそれらに沿って解釈されてきましたが、現代の我々にとってより重要なのは、非人間的な分断・断絶と、和解による人間性の回復というストーリーそのものであり、そこに向かって粘り強く進んでいった主人公たちの信念と勇気です。

”頭脳と手の媒介者は「心」でなくてはならない”
"The Mediator Between the Head and the Hands Must Be the Heart"

繰り返し提示される映画の重要なメッセージです。「心」は「頭脳(知識)」でなく、「手(技術)」でもないのですが、それらをつなぎ、我々を我々たらしめる大事な核です。それは人間性であり、人としての体験であり、感情であり、愛であり、信念であり、勇気です。主人公たちが危機を乗り越えたように、今一度、何を大切にしていくべきか、何を目指していくかを問いながら、現代社会の課題を乗り越えて行けれればとも思います。

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おまけ

今回は普段とは違った記事でした。フィクション作品を言及した記事を過去にも数本書いています。ご興味ありましたら、こちらもご覧ください。


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