力を持たない者は立ちあがることすら許されないのか?〜映画『ロストガールズ』


ロストガールズ


 パワフルに悪者を倒していく。知力を振りしぼり苦境を脱する。そんな映画やドラマを観ると、勇気づけられるなんてことはよくある話だ。

 しかし筆者は、勇気づけられると同時に、一抹の哀しみを抱いてしまう。みんながみんな、ワンダーウーマンのような超人的パワーを持ち、不平等が蔓延る世界を生き抜けるわけじゃない。みんながみんな、トニー・スタークのように膨大な財力を得て、強大な敵に立ち向かえるわけじゃない。スクリーンを見つめながら、そうした現実に目を向けてしまう。力やお金、あるいはそれらをくれる人脈を持たない(持てない)者たちは、どうやって世の歪さと戦えばいいのか。

 その苦しさを描いたのが『ロストガールズ』だ。リズ・ガルバスが監督を務め、主演にエイミー・ライアンを迎えたこの映画は、2020年3月13日にネットフリックスで配信がスタートした。
 行方不明になった娘のシャナン(サラ・ウィシャー)をメアリー(エイミー・ライアン)が探すという物語は、現実でもよく見られる問題を反映している。セックスワーカーへの偏見を隠さない警察に、生活の苦しさが原因で生じてしまう家庭不和。そこに貧困や女性差別といった背景を見いだすのは容易い。

 理不尽に抗いながら、メアリーはシャナンを探しつづける。その姿は、爽快さとは程遠い泥臭さを醸す。それも当然だ。夫は存在せず、家族のために低賃金の仕事をこなすメアリーは、アメコミの超人ではないのだから。
 人当たりが良いとは言えず、口も悪いメアリーは“理想の被害者”ではない。涙を流しながらうつむくこともなければ、理路整然とした理想を掲げて行動する勇ましさもない。シャナンを見つけたいという想いだけで、地べたを這うように、独自に捜索を続ける。

 きれいさっぱり問題が解決される映画を求める者は、『ロストガールズ』を観ても満足できないだろう。実際の未解決事件が題材ということもあり、ラストは重苦しい余韻を観客にもたらす。
 だが筆者は、図らずも『ロストガールズ』に励まされた。力のない者が声をあげても、なかなか聞いてもらえない現実が描かれていたからだ。それだけで嬉しくなってしまった。

 とはいえ、この嬉しさは怒り混じりだ。現実を描いただけで励みになってしまう状況は、それだけ多くの声が無視されてきたということなのだから。



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