ドラマ『ムーブ・トゥ・ヘブン』は、《そうするしかなかった者たち》に優しく手を差しのべる


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 『ムーブ・トゥ・ヘブン』は、今年5月にネットフリックスで配信が始まった韓国のドラマ。監督は映画『お料理帖 息子に遺す記憶のレシピ』(2018)などで知られるキム・ソンホ、脚本はユン・ジリョンが務めている。
 物語は、アスペルガー症候群のグル(タン・ジュンサン)と、グルの後見人サング(イ・ジェフン)を中心に進む。遺品整理士として、2人は故人の想いや人生を解きあかしていくというのが基本的なストーリー展開だ。実在の遺品整理士キム・セビョルによるエッセイ『去った後に残された物たち』を下敷きにしており、脚本執筆のためにユン・ジリョンは多くの遺品整理士を取材したそうだ。

 このようないきさつを経て生まれた本作は、端的に言えば傑出したドラマである。登場人物の複雑で多彩な情感を丁寧に描ききった脚本と、その情感をより鮮明な形に仕上げる素晴らしい役者陣の演技力。引きだしが豊富なカメラワークや演出も秀逸だ。どの角度から観ても高品質の果汁が滴り落ちてきて、視聴者の好奇心を潤し、満足させてくれる。
 特筆したい回は多いが、強いていえばエピソード4がとても印象に残っている。取り調べのシーンは遺品整理がおこなわれる前の出来事と思わせておきながら、実は...という時間軸のトリックは非常におもしろかった。『パルプ・フィクション』(1994)や『メッセージ』(2016)といった時間軸の入れかえを活かした映画に通じるこの仕掛けは最後まで巧妙に隠されており、全貌が明らかになるまでの流れは何度観ても唸ってしまう。

 遺品整理を依頼した後、自らこの世を去った老夫婦が主題のエピソード6も素晴らしい。この回は《死》がテーマだ。妻を道連れにしたインス(チョン・ドンファン)の行動に、サングは〈死ぬなら独りで死ねばいい〉と吐き捨てる。老夫婦の世話をしていたソーシャルワーカーのユリム(スヨン)に諌められても、〈他人の死を勝手に決めて それを責任というのか?〉〈殺人と同じだ〉〈奥さんが同意したかなんて分からない〉と言いかえす。

 自らこの世を、しかも誰かを道連れにして去ることに対するサングの考えは、正論のひとつかもしれない。少なくとも理解はできる視点だ。
 ところが本作は、サングの姿勢とは真逆の想いを紡ぐ。ひたすら老夫婦の人生に寄り添い、なぜ自ら死なねばならなかったのか?という疑問をきめ細かに紐解いている。自ら命を絶つのは良くないと決めつけるよりも、そうするしかなかった者たちへの優しい眼差しを迷いなく優先するのだ。
 この眼差しは、エピソード6以降どんどん顕著になっていく。望んでいなかったのに、弟分のスチョル(イ・ジェウク)を生死の境に追いやってしまったサングの苦しみ。1995年の三豊百貨店崩壊事故により、弟・サングと疎遠になったジョンウ(チ・ジニ)の後悔。これらの想いを本作は掬いあげ、それぞれに一筋の光をあたえる。

 正直、実際に起きた三豊百貨店崩壊事故が登場したとき、唐突だと感じてしまった。韓国の世情を取りいれるにしても、あまりに雑ではないかと。
 だが、その違和感はエピソード9を観たおかげで、見事に解消された。エピソード9はカン・ソンミン(ケヴィン・オー)が題材の話だ。幼いころ、養子としてアメリカに渡ったソンミンは、実母を知らずに生きてきた。マシュー・グリーンという英語名で生活していても、実母に会いたい気持ちは増す一方だった。しかし、その願いが叶わぬまま、ソンミンをこの世を去ってしまう。

 ソンミンのエピソードには、国際養子という韓国の社会問題が背景にある。かつて韓国は養子を多く送りだす国のひとつとして知られていた。ところが、生みの親のプライバシーを優先する法律の影響で、養子たちにはまともな権利がなかった。海外から韓国に戻り、公的記録を得ようとしても法律のせいで記録を照会できないなど、さまざまな制限を強いられたのだ。そうした韓国の暗部を抉りだすエピソード9も、そう生きるしかなかった者への想いやりで溢れている。
 三豊百貨店崩壊事故や国際養子の問題が絡むエピソードは、非力な一個人にはどうしようもできない強大な時代の波がもたらした歪さをちらつかせる。三豊百貨店が崩壊し、502名の死者と937名もの負傷者が出てしまった原因は、建物の異常に気づいていたにもかかわらず、営業を続けた経営陣の誤った判断にあったのは有名の話だ。そして国際養子の問題は、養子たちの人権を軽く見た理不尽な法律によって生じた。こういった背景を知ると、本作は多くの人々を恣意的に振りまわす権力者への批判的眼差しも滲ませたドラマなのがわかる。

 エピソード9は、《家族》という視点で観ても興味深い側面が浮かびあがる。結局のところ、ソンミンの実母は誰なのかわからないまま、このエピソードは幕を閉じる。実母がわからなかったことに、サングは〈最後の最後まで不幸な人生だったな〉と言い、ソンミンを哀れむ。だが、このようなサングの言葉に、グルは〈不幸な結末だとは思いません〉と返す。続けて、〈マシューさんは“母親”に会えた〉〈母親だと思った人は彼を覚えていて 彼の死を悲しみました〉という言葉を加える。
 ソンミンは実母と思われる女性を見つけていたが、その人は実母ではなかった。それでも、実母と勘違いされていた女性は幼いソンミンと親交があったため、彼の人生の結末を知り、人目を憚らず涙した。そこまで想ってくれる人がいたのだから、ソンミンは不幸じゃないとグルは言うのだ。
 このグルとサングのやりとりは、《家族》という在り方の可能性を広げてくれる。大事なのは心の繋がりであり、血の繋がりではない。血が繋がっていなくても、深いところで心が通じあっていれば、その人のことを《家族》としたっていい。そんな暖かさを感じさせる。

 ソンミンのエピソードに限らず、本作は心の繋がりこそ重要だと随所で表す。グルは実親を知らない養子だが、育ての親に多くの愛情をもらい育った。さらにグルの家の向かいで暮らすナム(ホン・スンヒ)には幼い頃から幾度も助けてもらい、遺品整理業でのパートナーである脱北者のジュテク(イ・ムンシク)も何かと気にかけてくれる。
 グルの周囲に、血の繋がりがある者はいない。それでも、《家族》と呼べるほどの深い関係の人々には恵まれている。この光景は、本作の家族観が滲むと同時に、多くの人が持つであろう《家族》はこうあるべきという固定観念を壊す輝きでいっぱいだ。

 固定観念といえば、本作は性役割(ジェンダー)の面でも優れた描写が目立つ。韓国は儒教の影響力が強い国としても知られるが、儒教には《五倫》という5つの価値観で構成された道徳理論がある。そのうちのひとつは《夫婦の別》と呼ばれ、夫と妻に固定的な役割を課している。男性は外で女性は内という価値観が強く、男性優位な家父長制的思想が色濃いのだ。
 このような背景は韓国ドラマの歴史にも反映されている。『私の名前はキム・サムスン』(2005)や『マイ・プリンセス』(2011)など、裕福な者が裕福でない者と出逢うシンデレラ・ストーリーにおいて、常に男性側が富や名声といった力を持っていたのは偶然ではないだろう。だからこそ、そうした構造にとらわれていない『梨泰院クラス』(2020)は、韓国ドラマの文脈における斬新さが光るのだ。

 その斬新さは本作でもうかがえる。しかも、『梨泰院クラス』以上の鮮明さとレヴェルで描かれている。従来の韓国ドラマと比べて先進的側面が濃い『梨泰院クラス』にしても、セロイ(パク・ソジュン)が父・ソンヨル(ソン・ヒョンジュ)とお酒を飲むときは、韓国の伝統的酒席マナーを踏襲するなど、保守的要素も根強かった。
 しかし本作はその要素が驚くほど少ない。たとえばテイクアウトショップを営むナムの両親は、夫婦で調理をし、接客もする。男女の違いに基づくはっきりとした役割分担が見られない。
 グルをたびたび手助けするナムの描かれ方も、家事や育児といったケア労働は女性に任されがちな韓国の風潮から逸脱している。手助けするといっても、グルのために料理を作ったり、洗濯したりという形ではない。危険を承知でサングを尾行するなど、《グルを気にかける人》として描かれるだけだ。むしろケア労働をおこなっているのは、グルやジョンウなどの男性キャラクターが多い。

 本作は、あたりまえとされてきた価値観を塗りかえながら、社会や世界という巨大な存在に埋もれがちな小さい声を拾っていく。その行為はささやかで、微力かもしれない。だが、いまもどこかで苦しんでいる少なくない人々にしてみれば、希望という名の救命具になり得る。
 そんな小さい声が宿る遺品を入れる箱の色が黄色なのも、なかなか粋だと思う。昔の韓国では、黄色は万物が生きかえる土の色であり、宇宙の中心を司るもっとも高貴な色とされていた。ゆえに、かつて黄色の衣服は王や皇帝といった位の高い権力者だけが着用でき、誰もが身に纏える色ではなかった。このような背景を持つ黄色で彩られた箱に、本作は市井で生きる人々が遺した想いや声、叫びを詰めこむ。

 グルは箱に仕舞われた遺品をヒントに、故人の声を生きかえらせる。その声のなかに、社会や権力者がもたらした不条理に埋もれながら死んでいった者の声もあるのは、ここまで書いてきた通りだ。
 そうした声に、『ムーブ・トゥ・ヘブン』はもっとも高貴な色とされていた黄色をあてがう。彼ら彼女たちこそ、大事にされるべき存在とでも言うように。



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