映画『ワイルドライフ』



 『ワイルドライフ』は、俳優ポール・ダノにとって初の監督作品だ。リチャード・フォードの小説『Wildlife』を原作に、ポールとそのパートナーであるゾーイ・カザンが脚本を執筆している。
 本作の舞台は1960年代、モンタナ州の田舎町だ。仲睦まじい両親ジャネット(キャリー・マリガン)とジェリー(ジェイク・ギレンホール)のもとで、ジョー(エド・オクセンボールド)は暮らしていた。お世辞にも裕福とは言えないが、愛に溢れる生活は幸せでいっぱいだ。ある日、ジェリーがゴルフ場の仕事を解雇されてしまう。それがきっかけで、ジェリーは山火事を食い止める危険な仕事へ出稼ぎに行く。残されたジャネットとジョーもそれぞれ仕事を見つける。前者はスイミングスクール、後者は写真館だ。しかしその生活は不安定で、徐々にジャネットの心を蝕んでいく。着ている服はどんどん派手になり、ジェリー以外の男性とも仲を深める。そんな母親の変化を間近で見ているジョーは、複雑な心情を募らせる。

 本作を観て驚かされたのは、ポールの初監督作とは思えない完成度の高さだ。キャラクターの情感を伝えたいシーンでは、むやみにカメラを動かさず、言葉や景色を丁寧に見せていく。一方で、ジャネットとジェリーの会話シーンではカメラを忙しなく切りかえ、物語に程よい緊張感をもたらしている。こうした押し引きによって、観客の興味を引きつづける上手さは驚嘆レベルだ。長回しやロングショットなど、さまざまな手法が見られるのも見逃せない。センスはもちろんのこと、基礎的な知識も十分に備えているのがわかる作りだ。

 役者陣の演技も特筆に価する。なかでもキャリー・マリガンは、演技力モンスターへの道を着実に歩んでいることがわかる素晴らしさだ。たばこを吸う場面における、心の不安定さを表した目つきは文字どおり絶品。ジェイクとの喧嘩シーンでも、小手先の大仰さに頼らない。微細な表情の変化や語気の強弱だけで、多彩な感情を爆発させる。あのジェイクですら、ただの小器用な役者に見えてしまうほどだ。それはジェイクのレベルが低いせいではなく、キャリーの演技が凄すぎるからなのは言うまでもない。

 強いて本作の批判点を挙げるなら、ジャネットが奔放に振る舞う背景が見えづらいことだろうか。小野良子も論じるように、1950年代のアメリカでは、家事労働こそが女らしさを表していた。女性の結婚年齢も下がり、学者や弁護士といった専門職に就こうとする者も少数だったという。もちろんそれは、男性優位社会の要請による影響が大きい。しかし、1960年代に入ると、アメリカでは第二波フェミニズムが盛りあがりを見せる。1963年に『新しい女性の創造』を発表したベティ・フリーダンなど、多くの女性が旧来的な女性像を変えようとしたのだ。
 1960年代のモンタナ州を舞台とする本作も、そうしたアメリカの状況とは無関係じゃない。その点の描写がもっと明確だったら、世間的には良いとされないであろうジャネットの言動に、より多くの観客がコミットできたはずだ。当時の社会が醸成していた規範に追い詰められたことも、ジャネットにそうさせた遠因の1つなのだと。フェミニズムへの理解が進んでいる海外では、1960年代のモンタナ州という背景だけで、多くの観客は察することができるのかもしれない。しかし、日本は他国と比べて男女格差が顕著な国だ。本作に対する日本での理解を考えると、この差は致命傷になりかねない(それを少しでも軽減するために、こうして筆者は拙文を綴っているわけだが)。

 とはいえ、その難点をふまえても、『ワイルドライフ』は良作と言える。心の奥深くに突き刺さるラストシーンを観たからだ。ラストシーンではジョーの両隣にジャネットとジェリーが座り、家族写真を撮る。この構図は、ジョーの存在が3人を繋ぐものであることを示唆する。
 物語の終盤に入ると、ジャネットはジョーとジェリーのもとを離れ、別の街で暮らしている。しかし、ラストシーンを観てもわかるように、時折3人は集まり家族として過ごす。このような描写は、いつも一緒にいるべきという家族像とはかけ離れたものだろう。だが、重要なのはそれでも3人が繋がっていることだ。夫妻と息子という形ではないにもかかわらず、3人は家族であろうとする。その姿に、従来の家族像とは違う新たな繋がり方を感じるのだ。



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