『全裸監督』は攻めていない



 『全裸監督』は、本橋信宏の『全裸監督 村西とおる伝』を原作とした、日本発のNetflixオリジナルドラマである。1980年代の日本を舞台に、AV監督・村西とおる(山田孝之)の人生を描いていくという内容だ。

 視聴前にいろいろ調べてみると、ワールドプレミアに関する記事を見つけた。Netflixを通じて全世界に配信されるだけあって、プロモーションにもかなり力を入れているようだ。その記事によれば、川田研二を演じた玉山鉄二は〈Netflixは攻めてるな、と感じました〉と述べている。さらに、総監督を務めた武正晴は、〈女性へのリスペクトなくして、これからの作品は作れないと思います。(中略)この題材を選び作品にすることはとても難しかったですが、これを機に日本も難しいことを面白くすることに挑戦していければと思います〉とまで言っている。

 そんな制作陣の言葉をふまえて鑑賞したが、「これで攻めてるだの女性へのリスペクトだの言ってるのか」と、思わず失笑してしまった。攻めた結果が女性を利用して成りあがった男の物語であり、AV全肯定に振りきる描写なのかと。いまはAV出演強要の問題が議論され、性のあり方や女性の抑圧に深く切りこんだドラマや映画も多く作られている。だからこそ、フィクション特有のエンタメ性を保ちつつ、劇中の女性キャラなどを通して、ニーズがあるであろう現実の問題を深く掘りさげることが、攻めの姿勢になるのではないか。質の高いセットから察するに、少なくない制作費をもらえたのだろう。しかし、そうして生まれたのが、ストレートな性描写や人を粗末に扱うことが攻めになるという稚拙な思考と、腐臭混じりの干からびたセンスを漂わせるドラマとは...。画一的な欲望に収まらないポルノを作るエリカ・ラストみたいな映像作家が注目されている現在からすれば、旧態依然とした性描写ばかりだ。1人の視聴者に過ぎない身分でありながら、こういう作品で世界に乗りこんでしまう人が日本にいることを謝りたくなってしまった。
 役者陣の高い演技力など、目を引くところもあるにはある。しかしそれは、作品の質を保証するものではない。役者という材料を活かせず、全体としてはあくびが出るほど退屈なものに仕上げてしまったドラマや映画は、珍しくないからだ。さまざまな要素の質と、それが作品と有機的に結びついているかは、別問題である。

 ドラマを進める重要なエンジンになっている黒木香(森田望智)の立志にしても、AV女優引退後に彼女が見舞われた多くのトラブルを考えれば、あまりにも単純化された人物像だ。超がつくほど男性優位な1980年代のAV業界を描きながら、そこへ性を主体的に楽しむ女性として黒木香が入る描写に、ほとんど批評性が感じられない。女性の自立らしきものを前面に出すばかりで、その自立性は男性側にとって都合の良いものに過ぎなかったのではないか?くらいの提起があってもよかったはずだ。当時の様子をそっくりそのまま描いたノンフィクションならともかく、フィクションも交えているのだから。
 こうした詰めの甘さが目立つ作品で、性描写や抑圧といったさまざまな面で先進的な『オレンジ・イズ・ニュー・ブラック』や『センス8』などと同じ土俵に立とうとする姿勢は、勇敢さとは程遠い愚かさをうかがわせる。この2作品に限らず、Netflixのオリジナル作品には、『全裸監督』なんて足元にも及ばない先鋭的かつおもしろいものが溢れているのだ。

 そもそも、いまの日本に、難しいことをおもしろくしようと挑戦しているドラマなり映画はないのだろうか? 先に引用した武正晴のコメントは、ないと思わせるものだ。しかし筆者はそう思わない。
 たとえば、NHKのドラマ『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』は、同性愛者の純(金子大地)と腐女子の沙枝(藤野涼子)を通じて、感情のグラデーションは多彩であることを教えてくれる。沙枝を抱いても純は勃たなかったが、それでも2人は強い気持ちで結ばれていた。好きという感情は、恋や友情、ましてや性欲で括れるほど単純じゃない。そうした社会の規範にとらわれない繋がりを示したという意味で、先鋭的な作品と言える。他にも、大切なのは血の繋がりよりも心の繋がりだと雄弁に示した『カルテット』の第3話、将来への不安という普遍的な問題にジェンダー批評を盛り込んだ『女子的生活』など、チャレンジ精神が際立つ日本の作品はたくさんある。これらの作品と比べたら、『全裸監督』は攻めていないに等しい。女性が都合の良い性玩具として扱われることに免罪符をあたえるような革命だの解放には、もううんざりだ。



サポートよろしくお願いいたします。