構造に順応する『ワンダーウーマン』、構造を壊す『リベンジ』


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 今月2日、映画『リベンジ』のDVDが発売されました。日本では今年7月に公開済みの本作は、コラリー・ファルジャ監督の長編デビュー作です。まず興味を引かれたのは、レイプされた挙句、それを隠蔽するため命も奪おうとした3人の男たちにジェニファー(マチルダ・ルッツ)が復讐するという物語でした。

 そのあと作品について調べたら、トロント映画祭で上映された際には気絶者が出るなど、これまたおもしろい情報に巡りあった。そんな事態を引き起こした過激なヴァイレンスから察するに、おもしろB級映画かな?と観る前は予想していたのですが、鑑賞後はその色眼鏡を恥じることになります。本作に込められた想いは、多くの人たちの心を揺さぶる切実なものだからです。

 本作が筆者の心をとらえたのは、『ワンダーウーマン』に対して複雑な気持ちを抱いていたせいかもしれません。2017年に公開されたこの映画は、男性優位になりがちなヒーロー映画において、パワフルかつ多面的な女性ダイアナ/ワンダーウーマン(ガル・ガドット)による英雄物語を描きました。ゆえにフェミニズムの観点から評価する声もあります。

 しかし筆者は、フェミニズムの観点から見て引っかかるところが目立つと感じました。『ワンダーウーマン』には、ダイアナとトレバー(クリス・パイン)がイギリス軍に敵軍の新兵器秘匿基地の破壊を進言する際、女は帰るよう促されるなど、女性蔑視を匂わせるシーンがいくつか登場します。でも不思議なことに、その女性蔑視的な価値観を生みだす構造への批判が薄いのです。一応そうした価値観を隠せない軍上層部にダイアナが怒るシーンはありますが、この怒りは女性蔑視に対してというより、秘匿基地破壊に消極的な姿勢に向けられています。

 作家のスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが言うように、戦争は女の顔をしていません。そうした場で次々と兵士を倒していくダイアナの姿は、男性と対等に渡りあうという意味ではフェミニズム・ヒーローと言えるでしょう。とはいえ、女性蔑視を生みだす構造への批判が薄いことは、問題の温床化に繋がる可能性もある。そんな憂慮から連想したのは、19世紀後半から起こった女性参政権獲得運動、いわゆる第一波フェミニズムにおける全米女性参政権協会(NAWSA)の戦略です。

 栗原涼子さんの著書『アメリカのフェミニズム運動史』でも示されるように、NAWSAはアメリカの第一次世界大戦参加を契機として、女性参政権獲得を目指しました。女性も男性並みに働けるのだから、女性にも同じ権利が欲しいという意味での平等を求めたのです。実際にアメリカでは、第一次世界大戦に参加した女性たちに対する好意的な評価もあり、女性参政権獲得を後押ししました。ただ、NAWSA的な意味での平等そのものがおかしいのでは?という批判は、1960年代中ごろから起きた第二波フェミニズムによっておこなわれています。端的にいえば、その平等を作る構造自体が男性中心主義ではないか?ということです。第二波フェミニズムは、男性中心主義な構造を解体しようと試み、その過程でDVやセクハラといった、私的とされていた問題を公的なものだと認識させるなど、一定の成果を挙げました

 このような歴史を知ると、『ワンダーウーマン』的なフェミニズムは古臭いものに見えます。100年近く前にNAWSAが求めていた意味での平等が随所で滲むからです。第二波フェミニズムがすでに問題点を指摘し、それに伴う議論も広まった現在において、『ワンダーウーマン』が匂わすフェミニズム的側面を絶賛してしまうのは、これまで多くの人たちが積みあげてきた努力や言葉に注意を払ってこなかったと宣言するようなものではないか。そう思えてなりません。

 そういった疑念を持つ筆者にとって、『リベンジ』はぴたりとハマる映画です。ジェニファーにダイアナのようなスーパーパワーはありません。作品を観るかぎり、これといった特技や飛び抜けた能力もない。そんなジェニファーが、性暴力を隠蔽しようとし、女性蔑視な価値観を隠さない者たちに復讐しようと立ちあがる姿に、とても共感しました。ジェニファーにとって、3人の男たちの存在そのものが脅威です。彼らのように性暴力を隠せるだけの財力や人脈もなく、ダイアナの如く超人的な力を振るうこともできない。だからこそ、また性暴力に遭わないために、それをもたらす可能性のある根本を破壊したのではないか。
 こうしたジェニファーの思考は、男性中心主義的な構造を変えようとした(いまも変えようとしている)第二波フェミニズム以降の流れと共振できます。そのうえで興味深いのは、筆者がおこなったインタヴューで、ファルジャ監督がボーヴォワールの著書『第2の性』から影響を受けたと語ったことです。“女性らしさ”の幻想を暴いた古典である『第2の性』は、第二波フェミニズムの思想形成に多大な影響をあたえたからです。このような背景も、ジェニファーが第二波フェミニズム以降の流れを汲むキャラクターになった一因だと思います。

 ダイアナと比べて、ジェニファーは強い女性像から少々距離があります。いまにも泣きそうな顔で追撃から逃れるシーンがあり、3人の男たちを倒していく姿もスマートではない。リチャード(ケヴィン・ヤンセンス)との決闘シーンなんて、血に塗れた廊下で何度もずっこけながら戦います。でも、そうやって泥臭く立ち向かうところに、親近感を抱きました。筆者もダイアナのようなスーパーパワーや飛び抜けた能力がない、平凡な人間だからです。そういう自覚を嫌でも抱えているからこそ、構造に順応することで輝くダイアナではなく、壊すことで生き延びようとするジェニファーに希望を見るのです。



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