『タッチ・ミー・ノット』が映す肉体的欲望の可能性と限界


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 ベルリン国際映画祭2018において、アディナ・ピンティリエ監督の初長編映画『タッチ・ミー・ノット』が大きな注目を集めた。最優秀新人作品賞のみならず、ウェス・アンダーソン監督の『犬ヶ島』(2018)といった有力なノミネート作品を抑え、金熊賞(同映画祭の最高賞にあたる)も獲得したのだ。

 本作はローラ(ローラ・ベンソン)の視点を中心に物語が進む。人に触れられると拒否反応を起こしてしまう障がいがあるローラは、父親の介護で通院する日々を送っていた。
 そんなある日、ローラは患者同士がカウンセリングをおこなう光景に出くわす。無毛症のトーマス(トーマス・レマルキス)や、脊髄性筋萎縮症のクリスチャン(クリスチャン・バイエルライン)などが集まるそれは、互いの体に触れあい自分を見つけるというものだ。
 カウンセリングを観察するうちに、ローラは自らの望む姿を徐々に見いだしていく。その過程でさまざまな性と生を知り、価値観や視点も変化していくのだった。

 2018年に公開された本作だが、新型コロナの流行により人との接触を避けがちな今だからこそ、多くの人が観るべき映画かもしれない。身体障がい者やトランスジェンダーなど、多くの人たちと文字どおり触れあうなかで道が拓けていくローラの姿は、人との接し方、あるいは触れあうことの意味を考えさせるからだ。なぜ人は肌と肌を重ねあわせる行為を欲望するのか? そもそも生きるうえで直接的な触れあいは必要不可欠なのか? いくつもの疑問が浮かんでは、過ぎ去っていく。
 こうした鑑賞体験をもたらす本作は、観客に受け身でいることを許さない。ローラを筆頭に、劇中の登場人物たちをつぶさに見つめ、思考するよう求めてくる。最後まで観客の価値観と偏見を揺さぶり続ける、ヒリヒリとした緊張感を醸す。
 この緊張感に浸ると、頭が疲労感で満たされてしまう。しかし不愉快な疲労感ではない。視野を拡張し、情感のパレットも増やしてくれるから、刺激的かつ爽快ですらある。

 そのような魅力に目がいく一方で、少々ありきたりに見える描写もあった。特に引っかかったのは、ステレオタイプからの解放や深い関係性の比喩として、セックスや性癖といった肉体的欲望を多用することだ。
 複数の人たちが癒やしあうナイトクラブでのシーンを観ても、肉体的欲望に従い、癒やしあう様を解放のひとつとする本作の姿勢がわかる。だが筆者は、解放や深い関係性において肉体的欲望は必要不可欠じゃないと考えている。たとえばドラマ『腐女子、うっかりゲイに告(コク)る。』(2019)は、純(金子大地)と沙枝(藤野涼子)の関係性を通じて、感情のグラデーションは多彩だと示す良作だ。ゲイの純は沙枝を抱いても勃たず、2人の間に肉体関係は生まれない。それでも最終的には深い結びつきを得て、笑顔で語りあえる関係性を築いている。2人の深い関係性は友情でも恋でも説明がつかないという意味で、既存の価値観や概念に収まらない先鋭さがあった。

 この先鋭さを知ったあとだと、肉体に対する執着をうかがわせる本作が示す自由な愛や欲望は、少し狭く感じてしまう。こういった観点を拭えない立場からすると、プログラムによって作られた存在だと知ったうえで、人工知能のホロ(ユン・ヒョンミン)を愛したソヨン(コ・ソンヒ)が出てくるドラマ『愛しのホロ』(2020)などのほうが、人という生き物の複雑な機微を深く掘り下げているようにも見える。

 それでも、本作の挑戦的姿勢は注目に値し、オススメもできる。他者への関心や人同士の交わりに輝かしい可能性を見いだし、その可能性こそ世界を良い方向に進めるエンジンとなる。このことを映像という言語で囁く『タッチ・ミー・ノット』は、人の知性を信じる愚直な映画だ。



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