絶望と諦念が混交する暴力に潜む哀しみ 〜映画『ヒメアノ~ル』〜


 『ヒメアノ~ル』観てきました。この映画、努力しても過去を克服できない人の物語じゃないでしょうか。みんながみんな、過去の辛い出来事を乗りこえたり、あるいは過去と向き合って生きていけるわけじゃない。自分の努力だけではどうしようもできないことがあるんだ。そんなメッセージを感じました。

 そのメッセージの表象は、森田剛演じる森田でしょう。劇中での森田はカスだし、彼のおこないにも何ひとつ共感できない。絶望と諦念が混交したおぞましい暴力は、観ていて不愉快になる。ただ、そうなってしまう理由があるから、「カスだな」の一言で突き放せないんですよね。

 もちろん、こうした暴力描写は賛否両論あると思う。でも、自分の努力だけではどうしようもないことがあり、そのなかでもがき苦しむ辛さを映画として表現するためにああいった描写に繋がったと考えると、僕は否定できません。常識や建前がなにひとつ機能しない世界は、確かにあるのですから。

 建前の話でいうと、『ヒメアノ~ル』は“コメディーとヴァイオレンス”の対比ばかり着目されますが、“本音と建前”という対比も見逃せないと思います。この対比こそ、森田の暴力性に潜む哀しみを浮きぼりにしているからです。

 そういえば、対比を活かす見せ方は、『ディストラクション・ベイビーズ』でも見られる。こちらは、楽しいから暴力をふるう泰良と、自己顕示欲を満たすために暴力に手を染める裕也ですね。どちらもろくでなしなのは間違いないけど、泰良は暴力が目的で、裕也は暴力を手段として用いている。

 ただ、『ヒメアノ~ル』と『ディストラクション・ベイビーズ』って一緒に語られること多いけど、共通点は多くないと思う。“暴力”の要素にしたって、後者は“暴力そのもの”を描いているのに対し、前者は暴力を通して、どうにもならない現実と、そこで生きることの辛さを示していると感じるし。救いや超克がないのはどちらもそうですけどね。

 というわけで『ヒメアノ~ル』、観ていて不愉快になる面白い映画でした。




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