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あおむしと、ぼく

昨日の朝散歩の帰り際、車一台ぎりぎり通れるくらいの道の真ん中に一匹のあおむしを見つけた。にょきにょき歩いていて、なんだか可愛らしく、ついしゃがんで数秒だけ見つめてしまった。

しばらく(...と言ってもほんの数秒なのだが)見つめた後、「またね」と心の中で言い放ち、僕はその場を去った。

と、その瞬間、後ろの方から車が、ぶぅーんと通り過ぎた。

脳裏に嫌な予感がよぎりながらも、家へと帰る足。けど、やっぱり、と、僕は引き返した。すると、そこには、相も変わらず、にょきにょき姿のあおむしさんがいた。ふぅ〜、と一息。彼の無事を確認して、僕の足はまた家へと向かった。

と、その瞬間、今度は、前方からバイクが来るではないか。

バイクは徐々に僕に近づき、僕の横を通り過ぎ、後方のあおむしさんのところを通り過ぎた。僕の首はまるでバイクの動きに連動したかのようで、最終的には、振り返る姿勢にさせられていた。

「大丈夫だろうか?」

二度目のそわそわが僕のもとにやってくる。でも、あおむしと僕との距離は一回目の時よりも少しだけ遠い。引き返すには、さっき以上の力と意志が必要だった。

「いや、でも、後悔はしたくない!」

そんな気持ちが高まり、結局、僕は引き返すことにした。すると、そこには、またもや、にょきにょき姿のあおむしさんがいた。ふぅ〜、と二度目の一息。(もはや二息目か)

居ても立っても居られず、結局、僕は落ち葉を使って、道の真ん中から、土と葉っぱのあるところに彼を移動させてあげた。きっとお節介だったろうに...でも、僕の気は済んだのだった。僕は僕のために、彼を移動させたのだった。

いいことをしてあげた、なんて1ミリも思わない。だって、その移動先こそ、ほかの新たな危険や困難が待っていたかもしれないし、それはわからない。でも、「見てしまった」から、そこに関係が生まれてしまったのだ。関わらずにはいられない僕の身体がそこにはあった。

「見つめる」という行為は、「関係のはじまり」を意味するのかもしれない。

その日の夕方、妻と散歩をしながら、この一連の話をしてみた。すると、彼女は「いつか蝶になってお礼を言いにくるかもね」といった。

「ああ、」と、僕は嬉しそうにいった。「それは、嬉しいな。それも、あるかもしれないな」と。今度、あの道の近くで、あるいは家の近くで、蝶を見かけたら、きっとそういう「まなざし」で蝶を見てしまうだろうな...そんな気がした。

気づくと、彼女の「まなざし」が、僕の側に入り込んでいた。「まなざし」は伝播するのだ。感染するのだ。

もちろん、いつか現れる蝶を見ては、あの時のあおむしだ、と決めつけることはできないし、事実無根もいいところだ。

でも、それでも、僕らは「事実の世界」を生きてはおらず、「意味の世界」に生きているのだから、どんな「物語」を生きたっていいのだ。

むしろ、人間の理性では捉えきれない相手や出来事に対して、人間が関わろうとする時には、どうしても「物語」が必要だったのではないだろうか。

そう思えば、例えば、「鶴の恩返し」や「笠地蔵」や「蜘蛛の糸」といった物語が語り継がれてきたことにも納得がいく。僕たちは、鶴との関わりを、蜘蛛との関わりを、お地蔵さんとの関わりを、持ちたかったのではないだろうか。

そうやって、関わり合う世界に生きたかったのではなかったのか。

そして、僕は、あの一期一会のあおむしと関わり合いたかったんだな、ということに、ようやく気づいた。どうかご無事に。蝶になって、この世界を羽ばたけますように。

あおむしと、ぼく、のお話でした。

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