画一化の進行に対するアンチテーゼ

通常国会がスタートした。疑惑ばかりの現政権。もうなんの希望も抱けぬことは言うまでもないが、ここまで劣化が極まればあとは没落の一途を辿るしかないのではと思ってしまう。そもそも矛盾に満ちた人たちが、矛盾に満ちた政策を打ち出したところでことがうまくいくことは一つもないのである。カジノ、桜、それに加えて例の学園の問題は一体どうなったのか。まさか「まだそんなことを言っているのか。早く暮らしのことについて考えようよ」などという愚言を言わ輩はいないだろう。こんなことを言い始める奴はあきらかに現政権によって愚弄のるつぼにはめられてしまっている。きちんとした説明責任すら果たせず逃げ道に走る。おまけに国民が払っている税金を使途不明同然に至らしめたりしている人たちが担っている政治である。いい加減、目を覚ますべきではないのかと思ってしまう。

中学時代の恩師に「点取りバカにだけはなるな」と言われたことがある。正直、画一も甚だしい日本の教育現場が執り行う試験という名の魔物は分かりやすさが際立つばかりで、思考を伴うものでは決してなかった。点を取ることさえ良ければいいのだということが至上命題としてあり、右に寄ったり左に寄ったりといった内面的な思考の逡巡を味わえる瞬間はほぼない。そうした柔軟性のない人たちが社会のリーダーになったりしたら、その社会はどうなるのかを想像してみるといい。思考回路が単一で、対外的に自らが強者であることを標榜している者たちが、弱者を使い捨て、また弱者を思いやることができない。ゆえに想像力が働かず、見栄や世間体という名の装飾物に一生絡め取られ続ける。いわば貧弱な価値観しか育まれないのだ。ある意味でそれはこの国の民族性に深く関係していることなのかもしれない。

よく会社のルールに埋没し、気がついたら対外的強者という名の虚飾を自らまとっていることがあろう。おそろしいことにそうした人たちは自分でそうなってしまっていることに気がついていないのである。長く一つの世間にいる人ほどそうした傾向は強くなっていく気がする。共感性や相手へのリスペクト、またはその瞠目の度合いという観点で見れば、虚飾をまとっていない人たちの方が圧倒的にその点は長けている。最近になって、私が権威を好きになれない理由はそうしたことも一因としてあるのだと気づかされた。

今年の干支は「子年」である。私もその一人だ。弱い生き物だから群れやすい。群れることは一定の副作用があることも承知の上で申し上げれば、ある種連帯という言葉を用いて、自らに共感の念を抱いてくれる人たちとのつながりを大切にしたいと願う。分野横断的にあらゆる角度から見て、自己と他者との共通項を見出したい。時勢は間違いなく悪政下である。妙なマニュアルをかなぐり捨てて、自らの頭で考え抜き、そうして発した言葉を大切にしながら、連帯の意味も込めて今年も「逆さまの世の中」を見ていきたいと思う。

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