コミュ力の欺瞞性

人と会話をするとき私は一対一の空間を好む。したがって人と会食するとなれば男女問わず2人でということの方が必然的に多い。向き合うべき対象が他にはなく、相手の話すそぶりや手のしぐさを見ていると、大抵は真剣に話をしようという姿勢が如実にあらわれている。無論、私の方もそうである。話すときは相手に伝わるような言葉の選び方を脳内コンピューターで探り、一方で話を聴くときはなるべく傾聴に徹する。つまりは相手の言い分を聴き入れる。さらにいえば相手を引き出せるような聴き方を意識している。だがこの「相手を引き出せるような聴き方」が至難であるのだ。

「相手を引き出せるような聴き方」を私なりに定義すれば、それはいかに相手が自らの内面に抱いている悩みや弱みを会話の中で示そうとしているのかという点と重なる気がする。だが人はなかなか弱みを見せようとしない。とりわけストレス社会の日本では相手の顔色を窺って必要以上に気を遣うせいか、自らの内面世界を他者にさらけ出そうとするのをあまり好まないようである。異文化を味わった身からすれば、誰にでも悩みや弱みはあるものだ。ところがそうしたものを安易に出せない社会はどうなのかという一種の疑問がわき起こるのである。

経団連の調査で企業が学生に対してどういった力を求めているのかを問うたところ、まず筆頭に挙がるのが「コミュニケーション能力」なのだという。「コミュ力」という言葉で簡略化され巷に流布するようになってからというもの久しい。よく若者を一括りにして最近の若い人は「コミュ力がない」とか「付き合いが悪いね」などという人が多くいるが、何をもってそういっているのか私には分からない。おそらく社会一般的な「コミュ力」の定義を私なりに解釈すれば、いかに周りと調子を合わせられるか。その一点に尽きると思う。ましてここに空気が読めないような存在は自然淘汰される。必要がない存在としてみなされるのだ。

通信技術の発達により人々が情報を送受信する速度は圧倒的に速くなった。一方で情報を精読したり文章の行間を味わうことが軽視される。そのような風潮が同時に勃興してきていることは無視できない。豊かなインテリジェンスを育む上ではこうした地道で興趣の尽きぬような体験を決して怠るべきではないと思う。それは自己啓発本に読み耽り、正しい答えはこれしかないんだという極めて狭隘なのとは正反対の営みである。単一的な正答を強く訴求する風潮が強まっている背景には不安という名の魔物が各々の心の中に潜んでいるからだろう。私だったら文学作品や社会問題を扱った書物を読んだ方がマシだと思う。

そうした世の中の風潮がひいてはどういう人々を形成していくことになるのかは火を見るよりも明らかであろう。つまり考えない人間が増えていくのだ。考えないことは実に楽なことである。だって考えなくていいのだから。さらにいえば学校、職場あらゆる環境において無思考の連鎖が生まれれば、規定の路線にはまっているのかが第一義になってしまう。つまりより良い社会を作るための方策として、いま自分に何ができるのだろうかという視点は自然淘汰されるのである。そのような社会にもはや寛容さを求めることこそがあほらしいようにも思えてしまう。

いずれの観点において共通することは、人々が分かりやすさというものを過度に訴求した結果ではないのか。見栄えや流行はそうした要素の一つとして当てはまるだろうが、分かりやすさをあまりにも求めすぎているに違いない。一見、誰もが使っている言葉が誰かを傷つけたり、誰かをふるい落とすような表現になっていまいか。よく慎重に吟味する必要があろう。「コミュ力」という言葉の綾にだまされない。相手の話をじっくりと味わえる。そして相手の思いを引き出せるような心の余裕を持っていたい。

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