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人と暮らすとはどういうことか

仙台に戻ってきてから住んでいるシェアハウスMaMeNa House。同い年の友人、齋藤真帆(まほ)が昨年9月からシェアハウスの計画をはじめて、春にスタートした。

4月から料理が得意な大学生のなっちゃん、同い年のまほ、僕3人で暮らしてきた。今月下旬、もう2人入居してフルメンバーになる。

ちなみに、うち1人は先日入居。その人とは友人のきんちゃんこと伊藤豪祐。仙台の活動的な大学生の中では有名だと思うが、仙台の学生が運営するコワーキングスペースM's Houseの発起人であり、世界一周への想いをプレゼンするコンテストDREAMファイナリストという実績を上げてきた大学生だ。

そんな彼が連絡を寄こしたのは、つい10日ほど前。

木幡さんのシェアハウスって空きある?

このLINEからわずか10日後、彼と一緒に住むことになることを思うと不思議だ。

彼はこの5月からカナダへ留学する予定だった。僕はそこに至るまでも友人として見守ってきたし、2月に帰省した際にも会ったが、カナダに留学に行くという腹づもりで手紙を渡したのだった。

しかし、この情勢でカナダへの留学は事実上白紙になり、休学はしているが実家で過ごしている。自分の殻を出る意味でも、外に出てみたいと思ったという。

住人たちとの相性もあると思うので、3日間くらい泊まりに来たら?と声をかけ、泊まりにきてもらった。最後の夜、彼は「ここに住みたいです。」と自ら口にした。

その時、真帆は入居するまでに二つの問いについて考えてほしいと話した。

1. 人と暮らすとはどういうことか
2. MaMeNa Houseに対して自分は何をできるか

この問いはきんちゃん本人への問いであり、既に住んでいる僕たちにとっても考える機会となった。

“人と暮らすとはどういうことなのか”

僕にとってこの家での暮らしは「人のことを考える豊かさ」ではないかと思った。

人のことを考える豊かさ

4月にエアアドバイザーの西原さんに「自分を捨てる仕事術」という本を紹介されて早速読んでみた。スタジオジブリのプロデューサー・鈴木敏夫さんの元で働き、現在はアニメプロデューサーとして独立している石井朋彦さんの著書。

僕はこの本の「おわりに」の最後の一文に惹かれた。

「自分以外のことを考えている人生は、本当に豊かである。」

なんていい言葉なんだろう。僕はそう思った。

自分のことを考えるのが悪いわけではない。自分と向き合うことも大切なことだ。しかし、自分という殻を飛び越えて他人へ想いを馳せる時間はいいものだなあと思う。

この家に住み始めてから僕は3つのことをしている。

1. コーヒーを淹れる
2. リビングに花を飾る
3. 1対1での会話を大事にする

この3つをやっている背景には、そもそもこういうことが好きだからという理由と家の中の風通しを良くしたいという思いがある。他人と一緒に暮らしていればいろんな気持ちを抱く。期せずしてStay Homeと重なった今はなおさらだ。

だからこそ、一人一人のポジティブ、ネガティブな感情と向き合った上でHealthyに過ごしてほしいと願っている。そんな想いの表れとして、僕のできる3つのことをやっている。

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話を戻して、毎週末、花を買いに散歩に出る。近所の花屋に入ることもあれば、地下鉄に乗って街中に行くこともある。ある時、街中の花屋に入った。すると真っ赤なガーベラが真っ先に目に入り「このガーベラ、真帆っぽさがあるな」と思い手に取った。

あるいは、仕事の合間に散歩に出かけお菓子屋さんに入って「みんな煮詰まってそうだから、シュークリーム買って行こうかな。」とか。住人の好きなものや笑顔を浮かべるのは、今までになかった種類の嬉しさがある。

相手のことを思い浮かべながら生きることは今までの自分になかった類のことだ。どちらかといえば、これまで生きてくる中で自分の「〜したい」「〜やりたい」を優先して生きてきた。また、自分の利益になることでなかれば行動しなかった。

そこからの変化が僕のなかでの「人と暮らすこと」なのだと思う。

また、昨年ラントリップのインターンでストレングスファインダーを行ったとき「共感性」が1位に出た。そういう意味で僕が意識していることは、一人一人のスピードに向き合うことを大事にしている。それは、1対1の会話を大事にすることに含まれるかもしれない。MaMeNa Houseは“帰る場所”であり“種が育つ場所”の側面がある。つまり、リラックスできる場所、自然体でいれる場所という側面がある反面、これから人生を掴んでいく20代前半が集まり育っていく場所でもある。

僕はこの家をそうだと見ている。だから、ゴリゴリ進んでいきたい人間がいる一方で、ちょっと今は静かにして、今はゆるふわっとリラックスしたいという気持ちが周りにあることも確かだと思う。僕はそのどちらもあってほしいし、白か黒かの世界ではなく、そのどちらもないと僕たちは前を向いて生きられないのだと思う。

だからこそ、常に揺れ動く空気のなかで、その僅かなさじ加減、機微と向き合いたい。そして、一人一人の気持ちに寄り添い、一緒に進んでいきたい。

アオタケのリーダー・ハイジから学ぶこと

この気質はまるで小説・風が強く吹いている(三浦しをん著)の清瀬灰二のようだと思い出した。僕は速さと優しさとが揺れ動く狭間で生きることこそが“強さ”だと思う。自分だけの都合で生き急ぐことだけが強さではない。上手くいかないこと、弱っている人に手を差し伸べ、寄り添い、共感する優しさを持って初めて“強さ”というのではないか。

ボロアパートの竹青荘に住む10人のメンバーが箱根駅伝を目指すこの小説においても、リーダーの清瀬灰二は箱根を目指すことに対して強権を発動する一方、素人のメンバーが弱音を上げることにも寄り添い、住人一人ひとりの特長と向き合っている。

天才ランナーの走が住人たちの体たらくさに耐えられなくなり、喧嘩になるシーンがある。

「いまみたいにチンタラ走ってたって、箱根に行くことなんかできない!絶対に!それなのに、なんであんたたちがのんきに酒盛りしてられるのかが、俺には理解できないね!」
(中略)
清瀬「いいかげんに目を覚ませ!王子が、みんなが、精一杯努力していることをなぜきみは認めようとしない!彼らの真摯な走りを、なぜ否定する!きみよりタイムが遅いからか。きみの価値基準はスピードだけなのか。だったら走る意味はない。新幹線に乗れ!飛行機に乗れ!そのほうが速いぞ!」
(「風が強く吹いている」文庫版pp.198-200)

僕はこれまで走る上で大事にしてきた言葉であったが、この言葉は人と生きることにおいても同じように大事な言葉ではないかと感じる。まさしく「アオタケ」で起こることは現代のシェアハウスとも重なってくるのだと思う。

うちは床が抜けて大家に怒られるほどではないが。笑

このことを書いていて、また読みたくなってきた。雨の土日は風が吹いているを読んで過ごそう。

風が強く吹いているのなかで「走る」ということに明確な解が出ないままに物語が終わり、それは天才ランナー走のなかで掴みかけたと感じても再び自問自答しながら走り続けることと同じように僕たちが「人と暮らすこと」へ問うことはずっと問い続けることだと思う。

物語のなかで走が清瀬との出会い、六道大の藤岡の言葉、アオタケの住人たちと過ごす時間において言葉・思考を獲得していくように、これはきっとこの家に住むあいだ軸にあり続ける問いなのだろう。そして、その度に僕は言葉にしていくはずだ。

そうやって語り合える人たちと暮らせていることが楽しくてしょうがない。

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