聖なる一歩と安全安心
どうも、まさまさです。
今日は、僕を勇気つける言葉について書こうと思う。
そして、その言葉の力をさらに大きくする環境について述べよう。
あなたは自分の意見がいえるだろうか。
「僕も賛成です。」は言いやすい。
「ちょっとそれどういう意味ですか?」は環境によるかなぁ。
「僕はこう思っています。(要するにあなたには反対の意見です。)」
これは結構難しいように思っている。
要するに、「自分の思っていることを自分なりの表現方法で表現するということ」はみんなちょっと怖いんじゃないだろうか…。
コルクラボの行動指針(仮)でいう「さらけだす」ということだ。
さらけだすためには大事なことが2つある。
1つ
【聖なる一歩】
自分自身が、一歩踏み出すということ
2つ
【安全安心】
聖なる一歩を踏み出しやすい雰囲気やそれを受け止められる土壌
だから、僕は聖なる一歩を大切にしたい。
そして、聖なる一歩が踏み出しやすいような安全・安心を確保できる人間になりたい。
ってことで、勇気つける言葉…聖なる一歩 環境…安全・安心について書いていくよ〜!
目次
✅安全
✅安心
✅安全・安心を確保する
✅聖なる一歩
✅安全
安全ってどういう意味なんだろうね?
ブリタニカ国際大百科事典の安全の解説は秀逸だと思った。
安全とは元来,危険や災害などによってそこなわれるおそれがない安らかな状態をいう。しかし,生活環境が複雑化し,予測しがたいさまざまな危険性の内在している今日,安全が積極的な行動の目標として重要な意味をもちつつある。すなわち,危険な事態の予測,想定,危険要因の分析,解明と排除もしくは他の条件による補完,そして危険が生じた場合に被害を最小限にする周辺条件や事後対策の整備などによって安全が指向される。裏を返せば,安全性とは潜在する危険が発現する可能性と対応する。
予測しがたい危険性が内在している今日(こんにち)…これは概念的には安心の方に入る気がする。
次に僕が入っているコルクラボ、というか株式会社コルクの佐渡島庸平さんの本『We are Lonely, but not alone』では、
・人によって何が安全・安心と考えるかはずい分違うということ。
・全ての人に共通する安全や安心もあるが、立場や状況、環境によって変わる安全・安心も存在する。
・個人の中でも対象によって、何が安全・安心かは変化する。
・安全は、場所やモノに紐付くことが多い。
・安全は客観的な事実を基にしている。
まとめると「安全は、客観的に身の回りに危険がなく、危険があった時の準備ができている状態」
✅安心
デジタル大辞典では、
気にかかることがなく心が落ち着いていること。また、そのさま。
「列車で行くほうが安心だ」「安心して任せられる」
『We are Lonely, but not alone』では
・安心は人の心理状態が紐付いている。
・安心は、イメージがわくこと。
✅安全・安心を確保する
まず、文部科学省では
安全安心な社会の概念を「人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること」
と定義している。
では、安全・安心を確保するために何をすべきなのだろうか。
僕が意識していることを紹介したい。
安全の確保
攻撃をしないこと。これが一番大切だと思う。
僕がよく見かける攻撃はこんな感じ。
・論点ズレてるんですけど?
・そんなのありえなくないですか?
・「全く」必要なくて…
・「全然」違うと思ってて…
100%否定の言葉がまず、攻撃的であると言うこと。
さらに、論点がズレているかどうかは、あなたの違いを受け入れる許容範囲が小さいことが原因では?と思ったりもするのである。
確保するには、
・内容ではなく発言することが尊い行為です。
・リスクフリー
・まずは受け入れよう。
・とげとげしい言葉はなしよ。
・誰が正しかろうが、何が正しかろうが、正しくないこともありよ。
・違いを楽しもう!
・あなたがわからないっていう事で、みんな学べます。
なんぼでも出てくる!
要するに、発言や行動のハードルを下げようってこと。
そうすることで、学べることはたくさんあるよ。
そして、安全な雰囲気
コミュニケーションコストの高い人に、さらけだすって難易度の高さ半端ないよね…。
そして、次に書くが、聖なる一歩への早急な生のFeedBack
行動に対するリアクションで安全であることが共通認識になるよってこと。
安心の確保
これから先どうなるか…ということがイメージできる状態にする。
イベントだったら、タイムスケジュールを明確にしていつ終わるかってことがわかるだけでも安心の確保になりうる。
この人に相談したら「どんなアドバイスがいただけそうか?」それもイメージできた方が安心である。
✅聖なる一歩
自ら一歩踏み出す。
それを聖なる一歩と呼んでいる。
コルクラボに入って間もないときに、生まれた言葉だ。
コルクラボに限らずだが、新しい職場や環境、コミュニティに身を置いた時、緊張していたりして、受動的な日々を送りがちではないだろうか?
そんなときに、自ら一歩踏み出して「やってみよう」「聞いてみよう」「言ってみよう」「手を上げてみよう」ということだ。コルクラボはサービスではないし、自ら動かないと見えない景色や学びがあるよってこと。
周囲がいくら「ここは安全安心のエリアですよ!」って呼びかけても、当人がそれを確認してくれるまでわからない。
確認してもらう、それが聖なる一歩になるのだ。
当人は、聖なる一歩を踏み出し、安全・安心を確認する必要がある。
さらに、周囲は安全・安心であることの証明に努め、環境・雰囲気を作る。
その両方向性のコミュニケーションによって、その一歩は聖なる一歩となり、安全・安心ということがいえると思うのだ。
もし、聖なる一歩に対し、攻撃すること人が居た場合、彼はもう一歩を踏み出すことをやめてしまうかもしれない…。
安全安心の確保、さらには聖なる一歩、それらがコミュニティが自走する最初のステップであり、熱狂の助走になりえると思っている。
わたしに一言
さぁ、聖なる一歩を踏み出してみよう。
あなたに一言
聖なる一歩に正のFeedBackを
サポートありがとうございます。 あなたのそのお気持ちのおかげでnoteを続けてこれました。 去年は1年で120本…みなさんのおかげです。これからも誰かに届く文章をかいていきたいです。